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猫池罵詈雑言雑記帳
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このコマーシャルのせかいでは、人間とその生活のネガティブな要素は一切削除される。コマーシャルの世界観の中には人の喜びの表現はあっても普通に生きてきた人であれば誰でも持っている怒りの表現はまず削除される。また愉楽の表現はあっても哀しみの表現はない。かくて私たちのコマーシャル環境には怒と哀の欠け落ちた喜楽人間が氾濫する。>『東京漂流』(藤原新也・朝日文庫)

ずいぶん昔にデザインというものに哀しみは盛れないといった人がいるが、最近のコマーシャルには、ほんのわずかであるが「哀」の字を表現しているものがたまにある。>(同)

 ここに引用した著者の観察眼には深く納得するが、これに加えて、近ごろでは「」という要素がわが祖国ニッポンのコマーシャル界に跋扈しているように思えてならない。

 TVはほとんど見ない人間だが、それでもときにはスイッチを入れる。そんなときにこの「醜」まみれになったコマーシャルとたびたび遭遇してヘキエキとさせられる。とりわけそれはBS放送において顕著である。


 それら「醜」世界をコマーシャルに盛り込んでいる常連はほぼ決まっていて、「サプリメント」だの「健康食品」だのと宣伝されている正体不明の「食品」群がもっぱらだ。たとえば、荒れきった肌の拡大画像が、なんの予告もなしに「ドカン」と画面を占拠する。直前までドラマのなかの美女に見とれていたのに、あんまりの仕打ちではないか。もちろん、荒れていることそのものはけっして「醜い」とは思っていないしむしろ人間らしさの一面だと思っているが、売らんがための見世物としたときに、それは一気に醜いシロモノと化す(むかし、「オールナイトフジ」のエロビデオ紹介コーナーで、ビデオの合間に鶴太郎のアップがイヤガラセのように出てきたのを思い出す。違うか・笑)。


 あるいは年配女性のたるみきった腹部によって、同様にいきなり画面が占拠される。つづいて現れる荒れた肌なりたるんだ腹部なりの持ち主の不景気きわまるご面相。
 または、年齢を重ねて現れがちな体調不良を大げさに表現して視聴者の不安をあおる。
 そして、そこに報酬と引き換えにして、いかにもしかつめらしくその「特効ぶり」を語る出演者。
 あるいは、そのじつなんら関係がないのに、「厚生労働省」の名前を出して、さもお墨つきがあるように喧伝するのもある。


 そのテの広告というのは、以前であれば子ども向けではない漫画雑誌やゴシップ雑誌に出ているのがもっぱらで、「厚生労働省」の文字と建物写真をでかく載せた「サプリメント」の広告を思い出す。どういう商品かって? なんでも、そいつを飲めば「あなたのチンポがでかくなる」のだそうだ(笑)。しかしこれは笑いごとではなく、それと大して変わらない商品が堂々とTVCMによって日々タレ流しにされているのであるからなにをかいわんやではないか。


 近ごろはネットのバナー広告にも「醜」コマーシャリズムが跋扈しつつあり、中年男女の不景気な表情を、さらにそれを増幅するような写真に仕立て上げ広告としているのも増えてきた。
 そんなモノに遭遇するにつけ、「あー気持ち悪い!」と不機嫌になりかねないオレであるが、あして跋扈しているところをみると、あんなものをみて「よさそうな商品だ。さっそく注文してみよう」といった(オレからみれば)不可思議な感性の持ち主が、想像以上に多いのかもしれない。


 さて、そうした「健康食品」群の一種である「トクホ」商品(「醜」コマーシャリズムの担い手でもある)とやらの品質を偽装していた事態が発覚、お墨つきを与えている消費者庁は1270種にも及ぶというそれら「トクホ」商品の成分検査をメーカーに指示したという。そんなものをいまさら、それもメーカーに命じてどうなるのかという気もするが、オレはあんなお墨つき制度は即刻廃止すべきだと考えているし、謳われている実効性云々以前に安全性すら疑っているので、このさい徹底的にメスを入れるべきであろう。



 もちろん、そのメスは「トクホ」以外の類似商品群にも入らなければウソである。
 ごく素朴に疑問を抱いているのだが、ああしたコマーシャルには、一見すると薬品を思わせるような「効果」が謳われているが、いったいどうやって薬事法を制限をクリアしているのだろうか。たるみきった腹部CMでは、その商品を飲めばまたたくまにスリムなおなかに早代わりと言っているとしか思えないモノもある。そんなものが眉唾であることはたいていのひとがわかっているハズなのだが、わが母堂が通っているデイケア施設の通所者(つまりお年寄り)だけをみても、そうした商品を「CMでいいっていってるから」といった他愛のない動機で定期購買をしているひとが多くて驚く。しかも、「では効果はあるの?」と訊いても、明快な答えはまず返ってこないのだ。


 そうした商品群のなかには、メーカーと関係のない専門家によって謳われている効果などまったく期待できないと断言されている分野もある。また、知人の医療関係者も、専門家の視点として「ああしたものを患者さんに勧めることは一切できない」と効果に否定的だ。
 以前、他界した父親が疾患の影響で栄養が極端に吸収できない状態にあったさい、栄養剤が処方されたことはあったが、「あれこれ宣伝されていますが、(そうした商品云々ではなく)医療用のサプリメントみたいなものはないのでしょうか?」とドクターや看護師に訊ねたことがある。単に言葉をにごらされただけであったが、ようは立場的にも市販されているそのテの製品について「いい」とも「悪い」とも言えず、かといって医療用であっても有効なサプリメントなど存在しないのだと言外に語っているようでもあった。つまり、あんなものは効果はないのだと。

 冒頭で引用した『東京漂流』からいまいちど引用してみよう。

商品慣れした大衆は、神々のいかなる「変身!」も「分身!」もすぐに見破って、興味を示さなかった。彼らは、自分たちをエキサイトさせてくれるような、まったく新たしい製品の出現がないことを知っていたのである。
 しかし厳密に言えば、まったく新しい発明がないというわけでもなかった。「トランキライザー(精神安定剤)」である。必要は発明の母とはよく言ったものだ。苦境に陥った経営者たちは、この新種の神のお世話になり、買うものがなく欲望がなえてきた消費者のイライラも、この神が面倒をみた>(前掲書)

 トランキライザーと「サプリメント」(あるいは「トクホ」)。オレにはどうも両者が持つ背景に極めて近しい影を感じないではいられないのだがどうだろうか。

■補足その1
 それら「醜」コマーシャリズムの担い手には、「エロ雑誌」などはほとんど素通りしているような著名企業も少なくない。そのなかの一社をめぐる個人的エピソード。
 あるとき、冷たい飲み物でもと思って自動販売機に近づいた。小銭を出しながら並んでいる商品をみたら、近ごろそのテの商品販促にご執心の大手メーカーのものであった。買うのをやめた。暑い日ではあったが、我慢した。そのメーカー。正直いえばあのロゴデザインにすら不快感を覚える。かつてはその社のビールを買うことも少なくはなかったが、いまはもちろん手にすらしない。その点で、少なくともああした「醜」コマーシャリズムに頼るだけの特効はあったワケだ。
 

■補足その2
 薬事法云々にからめた疑問を提起したが、いまひとつは「二重価格」の疑念も抱いている。たとえば、「通常価格4990円が、いまなら1000円!」などというアレだ。そのテのCMに遭遇するたびに、「この商品、ホントに4990円で売られた実績はあるのだろうか?」と思う(実際にキャンペーンとして割引にしている商品もあるのですべてが該当するわけではない)。あるいは「50万セット突破!」の類。公正取引委員会や税務署が調査しているのかどうかまでは知りようがないが……。


■おまけ
『東京漂流』はノンフィクション向けを謳っているそのスジで著名な文学賞の候補に挙げられたものを、著者自身が受賞を拒否したことでも知られている。
 これはあくまでオレ個人の推測にすぎないが、その賞にふさわしい内容と誤解される可能性をはらむ箇所が本書にはたしかにあり、それゆえ“与賞”という“罠”が仕掛けられそうになったのではあるまいか? 著者はそれを見抜いていたからこそ辞退という形で拒否したのではないだろうか。
 たしかに、その賞そのものは商売あるいはメシのタネとして割り切った場合には、得ておいて損はないだろう。また、受賞作のなかに優れた作品があることも否定できない。だが、この賞がそのお題目どおりに「ノンフィクション」ばかりに与えられてきたのかについては、いささか以上の疑問がある
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 予想を超える退廃おっと大敗だったと思う。
 さきの都知事選における野党共闘の結果だ。
 そこには、候補者・鳥越氏および各政党の力不足もあったろうし、白川勝彦氏が言うところの「白色テロ」の効果もあったに違いない。だが、ここにきていまひとつ想像するのは、今回の「小池VS増田」という構図が、巧妙に仕組まれた茶番劇だったのではないかということだ。

 いかにも「反自民」的ポーズを全面に出した小池氏。それに対し、自民党主流と創価学会は元岩手県知事という異例なまでに“地味”な(失礼!)候補者を担ぎ上げた。しかも、件の「鳥越バッシング」が噴出する以前から、増田氏の“マスゾエぶり”が明るみに出て、ただでさえ知名度で勝る小池陣営にどこまで対抗しうるのかと思ったひとも少なくはないだろう。
 しかし、そんなことはとうの官邸側にとっては百も承知で、小池氏で勝てるという確証があったからこその芝居だったのではあるまいか?

 小池勝利が動かないのであれば(「白色テロ」はそれをより確実にするために仕掛けられた)、狙いはおのずから見えてくる。

 野党共闘を切り崩す。

 これこそが反動保守同士の対決を演出した本当の狙いだったのではないだろうか。

 結果として、小池VS鳥越ではダブルスコアをゆうにクリア。増田VS鳥越という局面でも大差をつけた。ここから導きだされかねないのは、野党共闘に対する疑念であり、それは今後の各選挙にも影響を与えるだろう(さきの参院選では大勝利とはいなかいまでも、共闘がなかったらどうなったか、冷静に省みてみたい)。また、いまひとつは民進党内部の動揺を生んだ可能性はあり、同党議員や党員の離反へとつながっていくかもしれない(同党内の「共産党嫌い」勢力は?)。そうなれば、せっかく実現した野党共闘にヒビが入り、今後の選挙においてますます自民・創価の独走を許すこととなっていくだろう。官邸の狙いはまさにそこにあったのではないのか?

 こう記すと、小池氏やその支持者に対する自民党主流の冷遇ぶりなどを材料に、否定するムキはあるに違いない。
 おそらく、そうした冷遇や対立はウソではない。小池氏は官邸の思惑云々をさておいてもある種の対立をしたのは間違いなく、それは増田陣営とて同様だっただろう。
 しかしそれもまた、仕組まれた演出のなせる業だったとオレは見る。

 かつて“キワモノ系ポルノビデオ”*(注)の演出で知られたバクシーシ山下監督は、出演者を「騙す」ことによって作品に緊迫感を与えてきたという。たとえば、強姦シーンを撮影にするにあたって、女性モデルを含む出演者にはそれが「強姦もの」であることなどはきちんと伝え了承を得ておく。しかし、そこに予期しなかった仕掛けをからませることにとって、出演者たちを「ハマらせて」しまうのだという。なかには、軽いアルバイト感覚で出演したはいいが、撮影現場で繰り広げられてゆくのが芝居ではない強姦そのものと勘違いした男が「これはヤバイ」と逃げ出そうした例もあったらしい。そうして出来上がったものは、山下作品と監督を糾弾した市民グループによれば「黒澤明をしのぐ」作品だったというのだ。
 こうしたエピソードは『セックス障害者たち』(バクシーシ山下・太田出版)や『アダルトな人びと』(足立倫行・講談社)などに詳しいが、ここで注目すべきは演出によって独自のドキュメンタリー的世界がつくられたという点であり、出演者自身もまた、演出と現実との境界が覚束ないままに演出者に操られていたところにある。

 今回の「小池VS増田」という構図は、まさにこの手法によって打たれたひと芝居だったのではあるまいか? そりゃぁ(ひょっとすると)本気だっただろう。小池陣営としてはアベ自民&創価タッグと真っ向から対決したのかもしれない。山下監督が出演者を「ハマらせた」のと同様に「ハマって」しまったのだからムリもない。しかし、“監督”としては「小池勝利で十分。問題は、小池+増田がどれだけ鳥越をしのげるかだ」。
 こうしてまんまと小池都政がスタートし、下馬評にみられた「鳥越独走か?」という筋書きすらなかったことにされてしまったのである。

 各野党とその支持者、あるいは「反アベ」でも正統的な「保守」でも「自由主義者」でもあるいは「社会主義信望者」でもいいが、なすべきことは前進である。揺さぶりなどに動揺してしまえば、相手側の思う壺だ(正面から見れば、それだけアベ政権にとって脅威なのだ。野党共闘が)。


*注:
 一般的に「アダルトビデオ(AV)」などと呼ばれるが、「アダルト」とか称しつつもその大半は単なる「ポルノ」。個人的には「エロビデオ」という呼び方を好むが、「ポルノビデオ」というほうが正々堂々としているように思うので、ここでもこうした。単に「興奮する作品が(ほとんど)ない」というつまらん理由で個人的にはほとんど見ることのない「ポルノビデオ」だが、「作り手」についてはなにかと興味を覚えている(そりゃそれとしても吉沢明歩はええなぁ。出演作は1本も持ってないけど)。なお、例として「強姦」云々を持ち出したが、そうしたテーマに対する是非についてはここでは触れないこととした。


●おまけ:
 で、かような都知事だが、かつて石原みたいな元破廉恥小説家を長きにわたり抱いてきたのである。ここはひとつ、ポルノ界の御大・村西とおるをその席にご招待してみてはどうか?
 スローガンは「東京からスケベがやってくる!」。
 東京23区を「ポルノ特区」とし、いまや韓国エンタテイメント(とくに映像部門)に唯一対抗できているかもしれないポルノビデオの一大製作・輸出拠点とする。村西とおるのずば抜けた行動力については、たとえば『裏本時代』(本橋信宏・幻冬社)などに詳しいが、それがたとえポルノであれ、あれよという間にトップに躍り出た実績(それも二度も)を持つ巨人である。特定のイデオロギーに害されることなしに、文字どおりに寝食を忘れて東京都を盛り上げてくれるといっても過言ではないでしょう。

 なぜこんな露悪的なことを記すかって? それほど絶望したからさ。あまりにも無防備な選択に。

「気違いは抹殺されなければならない。
 もし私が父親なら、単身日本にやってきて、必ず彼を絞殺する。やせてまずそうだから食いたくはない。しかし食わないと異常者扱いされない。異常者扱いされないと無実にならないから泣く泣く食う、いや食ったフリをする」石堂淑明

「こいつは気違い。気違いに言い分を与えるなんて絶対におかしい。天下の大道をいけしゃぁしゃぁと歩いているのもマスコミが原因だ。やんなっちゃうよ。それを議論すること自体、世の中が間違っている証拠。気違いに自由なんて、とても大人とは思えない。そんなことがわからないのか。地獄の競争に勝つたけに、マスコミはルールとマナーとエチケットを忘れている。
 私は石堂君に全面賛成だね。」西部邁

『電氣菩薩 豚小屋発犬小屋行きの宇宙オデッセイ(上)』(根本敬・径書房/158ページ)

 以上、著名人によるふたつの発言は、「パリ人肉事件」として一般に知られている事件の当事者に対し述べられたものだ。共通しているのは、このお二方が右翼の「論壇」で長年にわたりもてはやされてきたことと、特定の個人を指して「気違い」と言い切っていること(「気違い呼ばわりともレベルが異なる)、さらに「気違い」だから殺してしまえというところにある。

  事件の当事者である佐川一政氏の「コレクション」からの引用だというこれらの発言集には、ほかに大岡昌平、加賀乙彦、福島章、矢崎泰久、中野肇各氏のコメントが列記されている。(当然ながら)いずれも手厳しい論であり、ことにあれだけの陰惨な事件をしでかしながら不起訴になった点などにも疑問が提起されている。だが、あとに挙げた5氏はさきのお二方とは異なり「気違い」といった言葉は一切使っていないばかりか、事件や当事者についてそんな安易な単純化はしていない(あるていどの知性があれば当然の話だが)。いわんや、「気違い」だから「抹殺」せよなどと安直な態度も示していない(石堂のおとっつぁんときたら、具体的に「絞殺する」とまで言い切っている。恐ろしいことだ)。

 こんな話を取り出してきたのは、いうまでもなく相模原で起きた大量殺人事件の容疑者の発言(あくまでマスコミを通したものだが)を目にして、「どこかで同じ言説を目にしたことがあるぞ」と思ったからである。
 同じなのだ。相模原事件の容疑者と右翼論壇の著名人お二方とが。

 断っておくが、「ハンディキャパ(*注)」と「気違い」とを同列視しているのではない。また、具体的に犯罪を犯した佐川氏となんら罪のない「ハンディキャパ」とはまったく異なる。ここでは、あくまで石堂・西部という個人(それも影響力のある著名人)が堂々と「●●だから殺していいのだ」という趣旨の発言をしていること、また、ここで記した「●●だから」がいつなんどきだれに向けられるか知れたものでないという恐怖感から「同じ」としている。

 同時にあの石原のおとっつぁん(小説家崩れの元政治家)も類似の発言を何度もしているので、その詳細を確認すべくネットで「石原 障害者」で検索してみたら、出るわ出るわ。相模原事件と石原とを結びつけたひとびとがこんなにもたくさんいるのかとやや救われる思いもしたが、この石原も先のお二方と本質的に同じである。
 このあたりについ触れた記事をふたつリンクしておこう。

障がい者抹殺思想は相模原事件の容疑者だけじゃない! 石原慎太郎も「安楽死」発言、ネットでは「障がい者不要論」が跋扈(リテラ)


「障がい者を殺せば税金が浮く」植松容疑者の狂気は自民党政権の障がい者切り捨て、新自由主主義政策と地続きだ(リテラ)


 リンク記事によれば、石堂西部石原植松予備軍がわが国にはことのほか多く顕在しているようだ。なんというか、いったいぜんたいどうしてこんな祖国を心から愛することができようか!?
 心の底から悲しくて恥ずかしい……。


●おまけ:
 あの「サンケイ」がミュンヘン事件容疑者がナチスに傾倒していたらしいという「雑報」を配信しているが、ここはぜひとも相模原事件容疑者と「アベニズム(即席造語)」との親和性についても記事にしてもらいたい(できもしないだろうが・嘲)。

■都知事選について
 先週は数日間日本を離れていたが、出発前にアップする間がなかったネタに、都知事選をめぐり、文春・新潮あたりがなにかをやらかすのではないかという推測コラムがあった。出発直前まで本業で往生していたため、そのままになってしまったが、帰ってきたら「あらビックリ!」。想像をしのぐ騒ぎになっているではないか。
 この騒ぎについては、白川勝彦氏が言うところの「白色テロ」という言葉がふさわしいとオレも考えるが、いまひとつは懸念していた部分が露見したのではないかという思いも捨てきれない。
 じつは、オレ個人は鳥越氏をいまひとつ評価していないのである。これは氏のプライベートでどうのという話ではなく、ジャーナリストに対する個人的評価であり、「大丈夫なんだろうか?」と思っていたなかで起きた騒動なのであった(長くなるので詳細は省くが)。
 もっといえば「さもありなん」。だが、だとしても鳥越氏にはがんばってもらわなければならない。いまの日本がそれほどの危機にあるからだ。足らない部分があるとすれば、周囲でフォローすればいい。先の4氏に並ぶような極右女史だのアベの子分だのに席をくれてやってはならない。まずはその1点で結束し、この短期決戦を勝ち抜くことこそが必須だと考える。
*注:「障害者」を「障がい者」とする風潮が昨今にあり、この「害」の字が問題視されているというのだが、では「障=さしさわり」の字はどうなんだろうという疑問を早い時期から抱いてきた。こんなのは偽善なのではないのか? しかしながら、現に障害を抱えたひとびとが「害」の字を充ててほしくないと考えている可能性もあり、個人的にはカタカナ語のハイディキャパを用いるようにしている。安易にエイゴなど使いたくはないだが。

 なお、一般的に「気違い」だの「キチガイ」の類が「放送禁止用語」の類にされている。いくつかの文献などによれば、精神的な障害を背負ったひとに対する差別にあたるからという説があるようだが、そんな発想こそが差別的だとオレは思う。両者は全然別ものではないか。本質的「気違い」というのは、「気違いだから抹殺しろ」などといけしゃぁしゃぁと抜かす──飲み屋などでのごく内輪の与太話ならともかく──連中のことを指すのでは?
 
 珍しく(?)、大相撲の千秋楽をTV観戦した。とりたてて相撲に興味があるわけではないが、白鵬のように豪快な強豪力士にはグっとくるものがある。
 今場所は白馬富士が優勝を決めた。
 あくまで個人的な見方だが、白馬富士といえばどことなく頼りなげで、いま一歩「横綱」になきりれていない「横綱」というイメージを抱いてきた。それが、ここ数場所は力強さと粘りが増し、なによりも目に気力が宿っているように思えていたので、なにげに応援したい気持ちもあったさなかでの優勝。あの白鵬に今回で21度目の勝ち星というのはうかつにして知らなかったが、最強級横綱の向こうを張ってきたのである。立派な実績なのではないだろうか。


 さて、TV中継を見ていたら、解説者のなんとかっていう元力士がすっとんきょうな発言をしていていささか仰天した。
 抄録ではあるが、その発言はこうである。
オリンピックだって、自分の国の代表選手を応援するじゃないですか。(だから)大相撲に日本人の横綱が出てきてほしいというのはごく自然な思いなんです
 とかなんとか……。
 

 驚きましたねぇ。もとい、
「アホか」
 と思った。


 大相撲って、いつから国別(代表別)競技大会になったんですか?
 世界各地からトップアスリートが集い、それぞれの技を競うオリンピックをはじめとするスポーツの世界大会であれば、元力士が主張するように自国の代表選手やチームを応援したくなるのはごくありふれた心情であろう(とはいえ、いかに選手が祖国の代表に選ばれたうえで出場しているにせよ、多分に個人競技的な種目だってある)。だが、大相撲はまったくの個人技であり(なになに部屋だから応援するなんてこともあるのかな?)、国際的競技会ではない。日本伝統の「国技」とされていることなどから、白鵬や白馬富士のような外国人あるいは外国出身力士の故郷のファンが「祖国出身だから」と応援していることはあるかもしれないが(同様に、「●●県出身だから」というファンもいるだろう)、それを元力士がいうように「日本人横綱」云々に結びつけることはいささか乱暴なのではあるまいか?

 件の元力士は、一部では「右翼」ないし「極右」などとみられているフシのある人物である。ゆえに、その発言のベースには、そうした連中特有の薄っぺらで「ポエム」な「国粋主義」があるとも考えたくなってしまう。もっといえば、そんなに外国人横綱が気に食わないのであれば、「大相撲の力士は、日本出身の日本国籍者で、かつ“ヤマト民族”でなければならない」とでも主張すりゃぁいいのだ(もっとも、そういう連中に限って「日本は単一民族国家」だのといった己の無知ぶりを披露してくれたりもしますね・笑)。
 アナウンサーも、ひょっとしたらオレと同様に仰天したのかもしれない。「ああ、そうですねぇ」などといった相槌の類も一切ないままに話そのものを素通りさせていた。
 ネット検索をしていたところ、富野由悠季氏の名前が目にとまった。いうまでもなく「ガンダム」シリーズの生みの親である。
 なんでも、次回作をめぐる発言のなかで声優の質についてふれ、それが一部ファンの反発を買っているらしい。いわく、「オタクだけが喜ぶ声はいらない」。
 面白い発言だと思った。どうやら“萌え系”というのだろうか、若手声優たちの芝居の流行に対する“苦言”
でもあったようだが、熱心な声優ファンらを中心に、氏の発言はあまり受け入れられていないようだ。
 
 モロに「ガンダム」世代だったオレだが、じつは最初から同作を見ていたワケではない。「ブッチャーVSガンダム」というのは当時なにかの媒体で目にしたような気もするけれど、ようは同じ時間帯に放映されていた「全日本プロレス中継」のほうを熱心に楽しんでいたからだ。それが、たまたまプロレス中継が休止になったときに「ガンダムとやらを見てみようか」とチャンネルを合わせてみたところ、「にゃるほど」と納得する面白さがあった。再放映で最初から見直し、かつ劇場版でも楽しんだが、にも拘わらずシリーズと化した「ガンダム」そのその後はほとんど知らない。言い換えれば、オレにとっての「ガンダム」は初代の「機動戦士ガンダム」でおしまい。同作がオンリーワンであり、それで十分なのであった。

 したがって、富野氏いわくの「オタクだけが喜ぶ声」については、「ガンダム」そのものとしてはわからない。だが、これが面白い発言だと思ったのは、自分自身が感じてきたつぎのことからによる。

「近ごろの声優は、芝居がすべからく『ガンダム』になってしまってはいまいか?」

 ようは、作品や登場人物とあまりにも乖離した芝居の横行。(大好きな)「ガンダム」と仕事としての芝居との区別がついていない。とくに吹き替えに顕著のように思うのだが、「この声優、アニメ(より狭義には最近の~)以外の訓練をしているのだろうか?」と思うこともしばしば。声と画面、作品と芝居とがまったく合っていないのだ。これはまぁ「ガンダム」ではないが、小学生か中学生か、そんな女の子の役なのに、声だけを聞いていると金髪のダイナマイトボディが目に浮かぶような声と芝居に仰天したこともあった。「声なんて生まれもったものだから」と思うかもしれないが、そういうレベルの話ではなく、芝居者自身の自覚と訓練の問題であろう(もっとも、こうした傾向は声優だけの話ではないが)。

 などと思っていたところの富野発言。以前、アニメ脚本の大家が、オレとの立ち話で「脚本家が育っていない」と嘆いておられたが、富野氏の心中もそれに近い危機感があるのかもしれない。

 このアニメ(広義にはマンガ)界の問題。じつはそれ以外の世界で“大問題”として充満しているのではないかと近ごろ考えるようになった。

 だいぶ前の話になるが、カウンター式の食堂で昼食をとっていたところ、厨房の主任だかなんだかと部下との間でささやかな衝突があった。なにが原因かはさっぱり覚えてないが、当時「アホか」と呆れ返りつつ覚えているのはつぎのくだりである。
 部下「(なにやら言い返したあとで)チーフ」
 主任「そうだ。オレがチーフだ」
 コレ、そのころ連載だかなんだかしていたマンガ(なんの作品かは覚えてないが)のセリフそのまんま。まぁ、偶然かもしれないが、タイミングといい絶妙の技であった。

 それからだいぶたったある日。タマタマ仕事で同行した男と編集担当と3人で食堂に入ったのはいいとして、
「(無事に取材も終わったし)軽く一杯やりましょうか」
 との編集担当の提案を受けたその男、
「あとワインもお願いします。われわれに払えるもので」
 と言ってのけた。
 コレ、「美味しんぼ」のなかで、高級レストランにカノジョをデートに連れて行きたいだなかんだかの相談だか世話焼きだかなんだの場面で山岡がしゃべったセリフと一緒。断っておくけれど、ごくフツーの食堂ですよ、ココ。庶民が家族連れで行くような。葡萄酒なども置いてあるパスタ&ピザの店の類でのできごとである。
 内心「ウゲッ」とさせられつつ、悪いけれど「ホンマモンのバカかコイツ?」と、一緒にいてたいへん恥ずかしい思いをさせられMASITA。

 だが、こんなのはムナクソが悪いだけでなんら害はない。それよりも政治の世界にこうした「アニメ化・マンガ化」が充満してはいまいか? 本題かここからである(前置きを長々すみません)。

 そうしたフィクションでは、たとえば新たな指導者(リーダーや上司などでもいいが、多くの場合は主役ないし主役格)が就任するやいなや威勢よく“敵役”というか内部の謀反者の類の粛清に乗り出したり、脅しをかけたりという場面は枚挙にいとまがない。見るほうとしては、それまで小悪を重ねてきた面々が締め上げられるのだからちょっとした溜飲も下がろうというものだ。だが、なにげにリアルな政界を見渡してみれば、その手の人物やその所業がやたらと目立つようになってきてはいないだろうか。
 西のほうの弁護士崩れなどはその格好の例ではないかと考えているけれど、現政権の暴虐の数々にだってその根っこに似たような感覚がくすぶっているような気がしてならない(その好戦ぶりなど最たる現象である。ああいうのを「平和ボケ」というのだ、本当は)。だが、アニメやマンガ、ドラマのできごとというのはフィクションだからこそ溜飲を下げられるのではないか。そんなものをそのまま現実の世界でやられたのではたまったものではない。
 バーチャルの錯誤。現実のはき違え。わが国において欠けつつあるのは思慮というものだろうか。
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 レジャーライター=植村誠の別館ブログです。
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