JR北海道をめぐる一連の“不祥事”は、こんどは青函トンネル車両事故という形で噴出した。北海道新幹線開業を前にしたみっともない事件にクビをかしげざるをえなかったが、つづいておきたJR東日本における山手線の電柱倒壊事件には、驚きや怒りを通り越して、恐怖、さらに悲しみまでを実感することとなった。
事件については、現場に居合わせたワケではなく、大半のひとびとと同様に報道を通しての知識しか持ち合わせていない。国としては、どうやら「重大インシデント」との認識を示したらしく、今後は同社の体質を含め、直接的あるいは間接的な原因が追求されることを願ってならない。なによりも個人的に「世界一」と愛着を覚えているわが国の鉄道が健全であってほしいと願うがためである。
JR東日本(だけではないが)といえば、当ブログでその車内騒音について触れたことがある。
※騒音鉄道...の巻。もうちょっと静かになりませんか、JRサン!
停車駅案内など必要不可欠と思われるものは別として、やれ携帯電話がどうの、やれ優先席がどうのと、えっらそうにタレ流し続けられている下世話な“道徳系放送”。あるいは自社の都合(構内工事や遅れなど)を乗客に対し注意喚起するむすびに「ご理解ご協力を」などと他人さまに対し「理解せよ」との慇懃無礼な態度(これは鉄道会社だけでなく、日本全国多種多様な分野に感染した誤った日本語ではあるが)。しかも、そんなのを自国語だけでなく米語──しかも、その米語そのものについても問題点を指摘するムキがある。pleaseの用法などはどうか?──で延々と繰り返す。とりわけ、常日頃利用せざるえをえない東京圏の通勤電車の類では(ほかも同じかもしれないが)、女性の陰気な声色に神経を逆撫でされ続けている。
じつはこの問題に関連し、さまざまな分野を対象に社会問題として取り組んでいるグループがある。
※静かな街を考える会
昨年、会では在京各鉄道会社に対し、利用者からの意見および質問として、車内放送についての書状を送付、同時に書状に対する回答を各社に求めた。その結果は同会の会報誌である「AMENITY32号」で報告されたが、いずれの会社も根本的な部分を避けた(自社にとって)無難な内容に終始している。どうやら、(英語放送や道徳系放送などを)不要とする考えがある一方で「必要」という声もあるらしく、鉄道会社としては、「必要」という一方だけの都合をタテマエにして現状維持を図りたいと見て取れた。しかしそれはまだしもマシである。少なくとも利用者の声に対し、たとえ形式的なものであったにせよ回答をしてきたからである。じつはたった1社、無視を決め込んだ会社があり、それがJR東日本であった(少なくとも会報誌配布時点では)。ようは、「こんなモノは雑音にすぎない。われわれのカネモウケのためには無視するに限る」とでも言わんがごとしというか、他社と異なり無視を決め込んだのだから、それをどう解釈しようと会やこちらの勝手というものだ。
あくまで個人的な推測ではあるが、この体質こそがJR東日本の今回の体たらく極まる大惨事未遂につながったのではないのか?
報道によれば、現場では異常を認識していたにも関わらず、組織としてなすべき対応を先送り(この場合は、怠ったあるいは無視したと同義)し、その結果がああした事件に直結したという。きちんと異常を察知し、報告を怠らなかった現場の鉄道マンは立派である。これがあるからわが国の鉄道は安心して利用ができるのだ。だがしかし、組織として風通しがないままにカネモウケばかりに奔走しているのでは、鉄道会社としての未来はないだろう。
そこでだ。ここはひとつ、JR東日本関連の全オフィス(キャリア官僚の巣のごとき本社はもちろん、ありとあらゆる子会社を含む同社関連施設)に「異常を発見したら速やかに対処しましょう。問題の先送りは厳禁です。現場および指揮系統各位のご理解ご協力をお願いします」と終日にわたり流し続けてみたらどうか。もちろん米語版も忘れずに──ただし乗客ら社員外に騒音公害の累が及ばないようにネ──。こんなのはいますぐにでも実践できるのではありませんか?
それにしても、昨夜起きたアシアナ航空の着陸失敗のおかげで(?)、JRの大事故未遂がニュースの埒外にされてしまった感があるのが残念だ。というより、JR東日本さらに広告や販売などの事情で同社におもねりたいマスコミとしては、アシアナ事故を奇貨としたいのかもしれない。しかし、子どもがオヤに叱られたり、長じて上司などからあるべき叱責を受けたりするのは、人間の成長の過程においては必要不可欠。これは、組織だって同じなんじゃないかと思うのだが、カネと権力を手にしてしてしまえば、もうそれで結構ということなのだろうか。ニッポンというくには、子どもに国家都合の「道徳」を強いるよりも先にすべきことがあるのではないかと思うのだが。
■おまけ
多忙にかまけて触れるタイミングを逸してしまったが、天皇皇后ご夫妻のパラオ訪問にさいし気づいたできごとにひとつだけ触れておきたい。
報道によれば、現地において天皇はつぎのような弔いの言葉を手向けている。
「さきの戦争で亡くなったすべてのひとびとに対し(抄録、以下略)」
「すべてのひとびと」
案外、これこそが天皇ご自身が国民や国家に対し伝えたかったひとことなのではあるまいか?
詳細は省くが、これは、ある特定の宗教施設とそれを利用あるいは利用せんとしている有象無象らに対するある種の警告なのではないかと直感的に思った。先代の天皇やその戦後を含め、そのご真意を知りたいとは思うが、そんなことすら許されず叶わないのがニッポンという先進国なのであろうか……。
この冬、わが母堂がインフルエンザに罹った。滅多に風邪の類をひかない母だが、年齢を考えるとインフルエンザはおそろしい。処置が早かったせいもあるのか、幸いにして大事には至らなかったが、そこでちょっとしたひと悶着があった。
「あー……、なんでこんなに食欲がないのかしら。このまま食べられなくなったらどうしよう……」
「なにいってんの。風邪をひけば食欲がなくなってあたりまえ。ましてやインフルエンザじゃないの。そのていどで済んでむしろラッキーなぐらいだよ」
「でもねぇ……。ぜんぜんなにもノドを通らないのよ」
予防注射の効果もあったのかもしれない。一時は39度前後の発熱をみたものの、2日目には平熱になり、懸念していた肺炎の兆候もないままに推移していた(解熱剤を処方されたが、飲ませなかった)。ところが、熱は下がったのに食欲ないとボヤきだしたのである。
心配はわかる。高齢者が食欲を失い、そのまま弱っていくのを母自身がなんども目の当たりにしているからだ。だが、この場合はまったく心配はないと思っていた。
「だいたいがさ、長年病院に勤めていて、風邪だのインフルエンザだのの症状をイヤってほどみてきたでしょうよ? このぐらいで済んでるんだから大丈夫さ」
母は、かつて看護婦だの検査技師などをしていたのである。だが、
「そうはいっても、こんなの(自分がインフルエンザに罹ること)ははじめてだし、わかるわけないじゃないのよ」
とのたまう。
そんなやりとりをしながらふと思い浮かんだのは、我らがアベシンゾー大先生である。なんだか、ますま増長したかのようにやたら威勢のいいことを抜かしているけれど、いざ問題が生じたらどうなるのだろう。もっとハッキリいえば、他国との武力衝突やら戦争やらに突入したら、その威勢のよさを彼(ら)は保つことができるのか?
案外、
「そうはいっても、こんなの(戦争)ははじめてだし、わかるわけないじゃないのよ!」
などとしたり顔でのたまうのがせいぜいなのではあるまいか?
これは、なにも自国に爆弾が降ってくるとかそういう意味だけではない。いままさに彼らが進めようとしている外国(アメリカ合州国)の下請け作業の合法化、その結果起こるべき諸問題も同じである。いや、武力の行使としての戦争だけでなく、武力なき侵略であるTPPだって根は同じであろう。こちらのほうは、まだいくらかブレーキが機能しているようにも見えるが(本拠地のアメリカにもアンチムーブメントがあるという)、隷属後、推進した家畜人どものうろたえぶりは見ものかもしれない。そうはならないようにしなければならないが。
ところで、わが母堂にそれ(アベシンゾー小話)をしたところ、
「あんなのと一緒にしないで!」
とおかんむりであった(笑)。
さて、ここからが本題。
そのアベシンゾーやお取り巻きであるが、彼らをさして「馬鹿」だのといった揶揄が巷には結構あるらしい。オレ自身もそうは思いながらも、当ブログなどで極力そうした言葉を避けるように心がけてきた(まったく使わなかったワケではないが、この場合の「馬鹿・バカ」は「バカバカしい」といった用法とは異なるので念のため)。が~。やはり彼らは「馬鹿」なのだと思い直した。
いわく、
「我が軍」
あるいは、
「八紘一宇」
……。
なぜ「馬鹿」だと思い直したか?
それは、彼らがどうやらその意味をこれっぽちも理解しないままに、それも責任ある立場を利用してこれらの言葉を使っているからである。
自衛隊は、明らかに軍事組織である。わが国の憲法第9条を素直に読めば、間違いなく違憲である。だが、「専守防衛」という制限を設けたうえで、今日まで機能してきた。
個人的な見方ではあるが、自衛隊という存在が、まったく意味がないとまでは考えてはいない。ソ連時代にはいまとは比較にならいほどの領空侵犯ないしそれに類する行動があったといわれているし、近隣には正常な外交が困難なだけでなく、なにかにつけ武力を誇示している国だってある。また、自然災害時などに自衛隊が危険な任務を請け負ってくれていることも事実だ(これについては、なにも軍事組織ではなくてもいいと考えているが)。
しかし、それが軍事組織だとしても、自衛隊と軍隊との間には大きな違いがある。
現在の憲法では、自衛戦争も含めて一切の戦争を放棄していますから、(中略)自衛官やレスキュー隊員に危険な仕事を強いることはできません。ですが、仮に憲法が改正されて自衛軍をもつということになると、「自衛のため」という憲法上の要請からさまざまな人権はもちろん、一般国民の人権も「軍のため」という理由で制限が許される可能性があります。(中略)軍隊を憲法上の制度にするということは、単に軍隊をもつ国になるということだけでなく、私たちの人権を制限する根拠をまた新たにつくり出す(以下略)。
上の一文は、『世界』(岩波書店)2005年1月号に掲載された(「中・高生のための憲法教室」第10回・公務員の人権が制限されるワケ・伊藤真)からの引用である。ここに触れられているとおり、わが国の憲法における基本的人権の尊重にも関わってくる根幹的な大問題だ。
まさかあのアベシンゾーらが、こうした一文を読んでいるとはとても思えないが、それにしたってこれは常識の部類であろう。それすらを理解できていないらからこその「我が軍」発言であり、言い換えれば「馬鹿だからこそ言えたひとこと」なのである。「馬鹿」が言いすぎなのであれば「不勉強」でもいい。
これはもう思想や信条以前の大問題。あんなのを首相にしているニッポン、その国民の標準的レベルを目の当たりにした思いだが、「八紘一宇」のおばさんにせよ、大阪のエキセントリックなおっさんにせよ、どうも現代ニッポンジンのガキ化が想像以上に深化しているのかもしれない。
常日頃から思ってきたことに、「バカを装わなければいけない空気」というのがある。「バカを装うのがたしなみ。これが現代ニッポン」というワケだ。TV番組(とくにバラエティの類)もそうだし、市井のおいてもそうだが、「いかに自分をおバカにみせるか?」、そんなのにご執心なように思えてならないのである(コメディアンの類はいちおう別だが、いくら仕事とはいえなにもそこまでに……と思うことはある。本当はとってもアタマの切れるステキな人物だったりするのだろうけど)。わっざわざ白痴めいたしゃべりと行動。気がつけば己の程度の低さに気がつけないほどになってしまったということなのだろうか。
そんな“空気”に満ちたニッポンだからこそ、あんな連中が、よりにもよって国や地方自治を動かす責任を握っているということなのかもしれない。これはもう重病なのではなかろうか?
PS.
弁護士の白川勝彦氏(リスペクト!)が粋な言葉の引用をしていたので、以下に孫引き引用をしておきたい。
「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、 それでもあなたは、それをやらなければならない。 それは、あなたが世界を変えるためではなく、 あなた自身が、世界によって変えられないようにするためです。」
※永田町徒然草・己を守るための戦い
ボスたるアベシンゾーをはじめ、彼らがのたまうには「法は犯しておらず、合法である」という次第だが、そんな開き直りのザマをみるにつけ思うのは、そういうニッポンの体質・センスこそが脱法ドラッグを野放しにし、「危険ドラッグ」へと進化させたのだということだ。
脱法ドラッグは、かつて「合法ドラッグ」として堂々と雑誌広告などにその宣伝が踊っていたが、その後の顛末はおおむね報道されているとおりなのであろう。問題なのは、その「合法」を謳っていたその論理がまさに自民党の諸君のそれと同義であり、言い換えると政府・為政者が率先して脱法ないし“みなし合法的行為(個人的造語)”を働いているということであり、子どもからおとなまでがそんなザマを「これでもかっ!」とみせつけられていることであろう。そういう土壌にあって、合法的ないし脱法的な悪事が蔓延するというのはまったくもって当然の成り行きではないか。
嗚呼! 「美しき、ニッポン(笑)」
ココからはオマケである。
中国人によるサンゴ密漁を大問題視する一方で、ニッポン政府とアメリカ合州国による珊瑚礁(だけではないが)の破壊をなんら批判しない国と御用メディア。密漁はもちろん問題で厳しく取り締まるべきだが、本当の巨悪というのは、むしろ合法的になされるというその好例ではあろう。
このニッポンというくにの論理。ちょっと古いが同類の開き直り例を引用してみよう。
本業は「まとめ屋」のK氏は、近頃、連帯保証業も始めた(中略)。
「まとめ屋って何かって? よくあるでしょ、駅のトイレとかに。『多重債務まとめて楽に返済』とか『他店一括して低金利切替え』とか。あれですよ、あれ。やってることは“回し”とか“紹介”だね。審査の甘いサラ金に行かせて借りさせるだけよ。で、こちらに手数料をいただくと。新たな謝金が増えるだけなんだけどね(笑)。で、連帯保証人でしょ、(中略)必要な金額にまずは上乗せしてもらうのね。ま、倍はではいかないけどさ。で、それを謝礼としてもらう。(中略)次にそれとは別に今度はこっちと契約してもらう。この時には公正証書で、強制執行もつけさせてもらう。で、家族全員を連帯保証人にするんだ。こっちは全員から搾り取れればいいんだからね」(中略)
これではまさに追い剥ぎだ。(中略)連帯保証人になってもらって借りた分は清算されるものの、新たな借金をつくってしまい、それを払うメドはまったくないのだから。
「追い剥ぎねえ(苦笑)。だけどまあ、借りたもんは返すのが道理だから。こっちは何も法律を犯してはいないんだよ。紹介料とか手数料とか、保証人料ってのはね、あくまでも相手の自由意思なんだ。強制じゃないよ」
(引用ここまで。『別冊宝島216 ヘンな広告』から「黒い紳士のけものみち」・夏原武)
法というのは、別段正義の味方でもなんでもないというのは常識だが、こんなのはあえていえば小悪の部類であろう。しかし、アベシンゾー一派とこのK氏。その論理の親和性には恐れ入るほかはない。そうしておいて、さらなる巨悪に突き進もうとしているのが、ほかならぬアベ政権でありニッポンという国家なのである。
もう一度言おう。
嗚呼! 美しきニッポン!
*注:この「政党保護費」というのはいうまでもなくユーモアの類としての造語である。生活保護およびそのシステムや受給者を揶揄しての言葉ではなく、「生活保護受給者」やその制度をあげつらう一方(特殊を一般化した子どもだましのテクニックでだが)で、政党助成金などという税金の無駄遣いを放置してやなまい御用メディア(とりわけ労働新聞Sや人民日報Y)やその善良な読者らに対する皮肉の意味で用いた。
最初に断っておくが、いかなる形であれ権力の介入による言論封殺はあってはならないと考えており、そういう意味でのいわゆる「発禁」などとんでもないというのが個人的な立場である。
したがって、ここに記すことがらはその原則とは相反することになるが(本当はならない。だって、オレは権力じゃないから)、原則とてモノには限度というものがある。ましてや、“商売敵”のミステイクをあげつらって「廃刊」だのと調子に乗って騒ぎ立てているような連中に対しては、ある種のユーモアとして表題のような発言だって許されるだろう。
個人的にニッポン版「労働新聞」(相方として大部数の「人民日報」もある)と呼んでひさしい「産経新聞」が、調子に乗りすぎたのかどうかはともかく、アパルトヘイト擁護とも解釈しうる珍説をデカデカと掲載したことがちょっとした騒ぎになっている。
問題の珍説を説いたのは売文をおもな生業とする曽野綾子女史。同紙の2月11日朝刊に「労働力不足と移民」と題し、偏見丸出しの暴論を堂々と発表したのだ。
一読して驚いた。あの山本七平氏ですら真っ青になるではなかろうかというレベルの持論が、じつにあっけあかんと語られているのである。
論旨のひとつは、少子高齢社会にあって問題化している高齢者介護に向けて外国人労働者を充当したらどうかという話である。高齢者介護という分野がますます重要になることは、間違いなく、個人的にはそういう社会的なフォローが整うことが、現役世代の労働力を保障するし、ひいてはわが国の経済にとって大いにプラスになると考えている(したがってアベ政権が強行する報酬削減など百害あって一理なし)。その現場に多方面からの人材を募ることも考え方のひとつだろうとは思う。
しかし、この女史のお説ときたらどうか。いわく「(介護の職員など年寄りに対して)優しければそれでいいのだ」。すなわち、そこには技術や知識などまったく不必要で、しかもたいした訓練もなくだれにでもできる仕事だというのである。言い換えると、その肝心の介護という仕事についての己の無知ぶりを暴露したワケだが、とうのご本人はご自分のそんなザマにこれっぽちも気がついてないのであろう(売文屋なんだからマトモな取材のひとつぐらいしたらどうなんだ?)。哀れなものだ(女史の説のとおりだとすれば、国が定めている介護関係の資格の類はまったくの無駄ということになりかねませんな、サンケイさんよ・笑)。これについては、とうの介護の現場から正当な反論が無知なるご当人に浴びせられることになるであろう。
そのうえで、「居住区だけは、白人、アジア人、黒人と分けて住む方がいい、と思うようになった」などと発言。つい持論が飛び出してしまったのであろうが、その後の報道をみても執筆した本人も掲載したサンケイもなんら反省を示していない。そりゃ、当人たちがそれ(アパルトヘイトだの介護蔑視だの)を正しいと思い込んでいる(?)のだから反省のしようもないのだろうが。
とまぁ、こんなおばさんがアベンシンゾーのブレーンのひとりであることは、なんら驚くにあたいしない。たとえばオウム真理教に“エリート”が集ったその背景について云々するのとは異なり、思考や検討するに及ばないレベルのお話にすぎない(ク○にハ◎がたかるようなもんか?)。
さて、こんな珍説をアピールした「産経新聞」は、相方のヨミウリとともにライバル社でもある「朝日新聞」に対し徹底的なネガティブキャンペーンを繰り広げている。それを助長したのは「朝日」側のミステイクあるいは勇み足であり、その後の同社の及び腰にあると考えるが、ミスと故意とでは、あったりまえだけれど「故意」のほうが重罪だわな。すなわち、今回の産経騒動はミスなどではけっしてありえず、同紙だからこそ起きた故意の言論事件だったのだ。
事件の余波は大きく、すでに南アフリカ共和国をはじめとする外国からの批判の声が寄せられており、今後はさらに深刻化する可能性だって棄てきれない。コトは市井のおばあさんの繰言では済まないのである(繰り替えすが、政府の公職にも就いた大人物である。したがって、これは「産経」という一企業だけの問題ではなく、わが国の威信や“国益”とやらにも関係してくるであろう)。
そこでだ。ここはひとつ「産経新聞」は自主廃刊してはどうだろうか? それこそが昨今繰り広げてきた持論に対しても矛盾がなく真摯な姿勢として世論の目に捉えられると思うのだが、ふと思い出したのが1995年に起きた「マルコポーロ事件」である。これは文藝春秋が発行していた雑誌「マルコポーロ」がホロコーストを否定する特集を組んだ結果、内外からの批判を浴びて廃刊に追い込まれたエピソードである。背景にはコマーシャリズムの問題もあったらしく、今回の件とは必ずしも合致しないが、「国際的な批判を浴びた末の廃刊」、その「前例」として「産経」の諸君の目にはどのように捉えられているだろうか。
とはいえ、繰り返すがこれは「ユーモア」の類として発言している。「マルコポーロ事件」についても、はたして廃刊という措置が正しかったのかどうかという疑問は大いにある(これについては各方面の識者らがそれぞれ意見を表明している。もっとも、当時一読した記憶では、当該記事そのものがマトモな論評にあたいする以前のシロモノに思えたが……ぁあ、そりゃ今回の女史のコラムも一緒ですな・笑)。だが、今回の事件は、他社に対し浴びせた暴論がブーメランのごとく跳ね返ってきたということはいえよう。お粗末な話ではある。
*Link:ジャーナリストの命の値段について。(Catwalkより)@Shinya talk
*鎌田氏のような“インディーズ”がお気に召さないのであれば、あのNHKがかつて混乱下のソマリアにクルーを送って優れたドキュメンタリー番組を発表した。あの取材は、文字どおりの命がけだったのではないかと思うのだが。
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