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猫池罵詈雑言雑記帳
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 アベシンゾーという男はオリジナリティに富んでいる。

 ニッポンジンのなかには、韓国や中国など近隣諸国が大嫌いな輩も多いようだが、そんな彼らがよく言うことのひとつに、近隣国による歴史の捏造だのウソツキだのといった揶揄がある。ようは、
「お前らの歴史解釈はトンデモナイ」
 だの
「自分らに都合のいいようにデタラメを抜かすな」
 といったところなのであろう。
 たしかに、そうした事案のなかには異なる見方や解釈が可能なものもあるし、ときにいいがかりとしか思えないような発言が外国からわが国に向けられることがあることまったくないとまで否定しようとは思わない。しかし、仮に何百歩か譲ってそんないいかがりばかりだとしても、そんな諸外国のひとびとだって、我らがシンゾーさんの厚顔無恥ぶりにはとてもかなわないだろうなぁと改めて思った。いくらか控えめに言い換えると、わかってはいたけれど仰天した。

 たとえば、リスペクトしている弁護士・白川勝彦氏は、改めて真っ当かつ誠実な憲法解釈をしている。

LINKイ:「永田町徒然草・集団的自衛権を考える」

LINKロ:「同・穏やかな憲法記念日に」

LINKハ:「同・それでも地球は丸い」

 上のリンクの「ロ」で、白川氏は弁護士すなわち法の専門家(かつて自民党の幹部だった政治家である)として断言している。

憲法9条を縦から見ても横から見ても、集団的自衛権の行使を認める余地はない

 すなわち、天動説を唱えもとい、天動説を事実としてでっちあげたうえで法制化せんとしているのがシンゾーさんたちによる無知無謀狂乱ぶりの正体なのである。わが国はもはや立憲民主主義国家ではなくなってしまった。世界中のみなさん、今後はそのように“解釈”してください。

 さて、ここから先はタチの悪いジョーク含みである。
 国家の最高位のきめごとである憲法に逆立ちした自称“解釈”を施して得意になっている首相をいただくニッポンである。トップ自らが最悪の法やぶりを実践しているのだから、どうやらニッポンという国は法をいかようにでも解釈していいということなのであろう。
 たとえば、窃盗やら殺人やらも、ひょっとすると罪として問われないような法の“解釈”が可能なのかもしれない(「まさか・笑」といちおう記してくが)。
 
 そこでこんなブラックジョークはどうか。
「鼠小僧は合法である」

 わが国の憲法(すでに形骸化してしまったが)には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(25条1項)」と明文化されているが、これをタテにしてオリジナルな法の“解釈”とやらに打って出たらどうだろう。
 つまり、カネをごっそりと溜め込んでいるところを襲ったうえで
「窃盗の概念は認める。だが、これは“最低限度の生活を営む権利”を守るための正当防衛である。したがって窃盗ではない」
 といった(屁)理屈を主張するのだ。莫大なカネが眠っているんだ、少しぐらい分けてくれたっていいではないか。マトモな仕事もなく、オレだけじゃない国民の多くはそうしたカネがないと生きていけないのだ。そうして困ったひとびとにこのいただいたカネを分けてやるのだ。そもそも、国のトップからしてオリジナリティあふれる法の“解釈”とやらを実践しているではないか。アベサンはきわめて正しい。だから、我々国民が同じように法の“解釈”に基づいて行動してなにがいけないのか?

 繰り返すけれど、これはブラックジョークである(世界的にみれば、これに近いセンスを持っているひとや民族はけっして例外的存在ではないかもしれないが)。しかし、本当にそうなってもおかしくないような“指導”を、クニのトップ自らが実践しているとはいえる。

 いまひとつ日本国憲法の条文を引用しておこう。

 この憲法が保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって保持しなければならない。(日本国憲法第12条)

※補足:一方、きわめて真面目に添えるのならば、アベシンゾーサンが無自覚な(?・・・もしそうなら正真正銘の馬鹿というものだが)インチキをしてまで拘泥する集団的自衛権の行使には、べらぼうなカネがかかることにも注視する必要がある。庶民に対し一方的増税を繰り返し(消費税増税によってトヨタだのといった巨大輸出企業はその払い戻し金で増税ぶんがまんま純利と化す仕組みになっている。それだから空前の利益が出るのはあたりまえであり、そこには企業努力なんてものはない。むしろロビー活動の成果といえるだろう)、国の借金が1000兆円だのといっているそのさなかにあって、外国(ここではアメリカ合州国と同義)の利益のために軍事予算を増やさざるをえない状況に国自らが進んでいるのである。規模こそ違えど、これは北朝鮮と同じ発想・・・いや、自国のためはなく宗主国の利益に供与しているわけだから、同じにしては北朝鮮に失礼ですね(若干のおこぼれはニッポンの軍需産業企業にもあろうが)。 

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 韓国・全羅南道沖で起きた船舶事故。
 調査が十分に進展したとはいえないながらも、報道によればどうやら人災である可能性が高いらしい。本来ならば起こりえない類の悲惨極まる事件であり、被害者や遺族らの悔しさは想像にあまりある。

 今回の事故をめぐって、フェリーの事業者やその従業員、さらに韓国行政のケンチャナヨさ加減がクローズアップされている。ひとつひとつをここでは挙げないけれど、その多くについて、あの国ならば十分にありうることだとは思った。
 たとえば、知人の在日韓国人G氏は、韓国企業に巣食ういい加減さをたびたび指摘しているし、日夜飲んだくれ、出社するやサウナに直行する管理職のエピソードなどを苦笑まじりに披露してくれたりもする。ケンチャナヨ(英語でいうところの「ノープロブレム」だが、しばしば前向きのニュアンスでも用いられる)はあの国の文化の大きな魅力だと個人的には実感しているし、やや大げさにいうならば、強さの根源である。だが、「ケンチャナヨ精神」はときに暴走する。「大丈夫」が「いい加減」と誤訳される。そういう意味で、今回の事故・事件は韓国社会に蔓延するそうした「負」の要素が収斂した結果なのではないかとも考えたくなってくるのである。

 さて、そうした隣国の「負」の部分をみるにつけ、日ごろから思っているのは、
「ニッポンのどうしようもない部分をさらにしょうもなくしたのが韓国のそれである」
 ということだ。言い換えると、わが国のそれとあの国のそれとは五十歩百歩。馬糞とイヌのクソ程度の差でしかない。
 そのニッポン的しょうもなさが、今回の事件にさいしてわが国に噴出している。すなわち、隣国の悲惨な事件をダシにしての誹謗中傷の類。なかには「船の管理ひとつできないのかよ」といった悪口もみられるが、ようは、
「ほぅら、韓国ってホントにダメでしょう?」
 というワケだ。それだけでとどまっていればまだしも、「だから従軍慰安婦をはじめとする軍国日本について連中が言うことは全部デタラメ」だのといった筋違いの方向にも発展したりもする。驚くべきは、そうした言がネット上の落書きだけでなく、商業紙誌やテレビ局までがこぞって記事配信によって日々タレ流されているところにある(ひとつひとつの例については割愛する。そんなものはネット上だけでも相当数あるからだ)。

 繰り返すが、あの国にはある種“未成熟”な面が多々あると考えている。だが、それならわがニッポンだって一緒ではないのか?
 たとえば、JR西日本・福知山線の大事故(事件)はどこの国のできごとか? あるいは、相次ぐJR北海道の事故や大事故未遂、あるいは事実の隠蔽はどうか? 中日本高速道路によるトンネル崩落事故はわが国で起きた不祥事事件ではないのか? 
 そうした近々の事件に頬かむりをし、ことさらに他国の不祥事をあげつらう哀れな国民。隣国を見下すことによって溜飲のひとつでも下げたいと思っているのかどうかはわからないが、「恥」というものを忘れたのかと嘆かわしくなってくる。そうしたひとびとは、たとえばここに挙げた3つの交通事故が、諸外国でどのように受け取られているのか、ちょっとは想像してみてほしい。

 こう書くと、「誹謗中傷を繰り返しているのはあっち(韓国)のほうじゃないか」と言い返したくなるムキもあるだろう(ただしこれは「言い返し」であって「反論」の仮定ではないので念のため)。その気持ちはわからないでもないし、その点ではまだしもニッポンジンのほうがいくらか行儀がいいかもしれない。だが、相手がそうだからこっちもというのはガキそのものではないか。「赤信号、みんなで渡れば・・・」というのはちょっと違うかもしれないが、ぁあ、それでわかった! 赤ん坊に刃物首相が拘泥する「集団的自衛権」云々が。ようは、「よその国も戦争してんだから、ウチだっていいじゃん!」ってことか(・・・というのはそれを好意に解釈する側のセンスであり、為政者側はもっと生臭くたくらんでいる)。バカだネ(笑)。

 外国の失態や欠点をあげつらって溜飲を下げるヒマがあるのなら、もっと自国の問題について真剣に向き合ったらどうなのか? とりわけ報道機関については心底からそういいたい。せめて、祖国・日本に誇りを持って胸を張りたい。そのためにもこんな体たらくなことでいいのか? そうじゃありませんか?

 
 アップするのがすっかり遅くなってしまった。
 サッカーJリーグ・浦和レッズサポーターによる「差別的掲示物」事件についてである。

 事件についてはすでに多くが報道されているのでその内容については割愛する。
 
 事件に対する公式のリアクションとして、浦和レッズの主催試合が無観客で催行された。Jリーグ初の処分だという。迅速かつ妥当な措置だったと思う。国際的にみても、この種の事件はサッカー界で散発しているが、いずれも厳しい処分がスピーディーに執行されている。
 サッカーというスポーツは、文字どおりほとんど世界中で親しまれているといっていいだろう。それだけにレイシズムやそれに関連する問題には敏感かつシビアにならざるをえないに違いない(それにしても、浦和レッズには外国人のサポーターはいないのだろうか? どうでもいいが)。

 さて、今回みられたように、差別的発言や行動に対し速やかな処断を下したサッカー界だが、ではさてわが国における政治の世界はどうかというのが今日のテーマ。

 せっかくなのでおひとりだけお名前を挙げさせていただこう。
 石原慎太郎サンよ、たとえばあんたのことだ。

 そして、そんなのを首都の知事に据えてきたニッポンジンども。

 しかし、石原のおとっつぁんのような人物は、じつは市井にはいくらでもいる(ぁあ、そういう視点では森なんとかっていう肥満した田舎ジジイもまた然り・笑)。そういう人物が、たとえばごく私的な酒宴の席などでなにをぶちまこうと勝手というもの(まぁ、内容によっては問題になるかもしれないが)。だが、あの男は都知事というわが国の首都で知事を務めてきた御仁である。そこいらのおっさんとは異なる存在だったのだ。そういう立場にある(重責をになっていた)人物が、公の場でやれ「三国人」だの勝手に仮定するところの彼らが「暴動を扇動する」などとぶちまけ、それでいてほとんど不問のままやりすごすニッポンおよびニッポンジン。それだけでなく、そんなのを長期にわたって知事の座に据え、いまだにありがたがっている連中が蔓延すつニッポン。

 あのおっさんの差別発言は、なにも外国人に対してだけではない。女性やハンディキャパーらに対する痴漢的暴言の数々。気分が悪くなるので、いちいちここでは挙げない。繰り返すが、そんなのを知事に据えていたのがニッポンジンでありニッポンという国の実態なのだ。

 そうなってくると、今回の浦和レッズ事件と石原的ニッポンジンとの対比というものが際立ってはきまいか? 言い換えると、レッズに対するサッカー協会の処置に賛同し、かつレッズ側の公式見解について納得できるとするならば、石原やそれに類する人物およびその所業について疑問のひとつでも浮かばなければウソである。はたして、そこに気づいたひとはどれだけいるだろうか。

 なんつうか激甘だよなァ。ニッポンの政治の世界ってのは。バカ丸出し。日本人としてとっても恥ずかしいです、はい。
 ネット記事を流し読みしていたところ、つぎの記事が目に留まった。
*Link:佐村河内問題において法律では罰せられない”最大の罪“とは何か- messy

 佐村河内守氏にからむできごとについてのエッセイである。ハートのあるいい記事で、自分なりにも考えさせられるところがあった。
 さしあたりはリンク記事をお読みいただきたいが、ひとつ驚いたことがあったので、今日は前回の「追記」として、そのあたりに触れてみたいと思う。
 リンク記事中で、筆者は「佐村河内プロフィール」について触れ、そこで自らが覚えた怒りや嫌悪感、そしてその根源について記している。大いに同感できることで、ぜひとも渦中にある佐村河内氏ご自身にも読んでいただきたいと思う。

 さて、オレが「驚いた」のは、じつはその「佐村河内プロフィール」そのものについてである。
 上記リンク記事にもあるが、佐村河内氏の公式サイトには、つぎのように紹介されている。

<被爆者を両親として広島に生まれる。4歳から母親よりピアノの英才教育を受け、
10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし「もう教えることはない」と母親から告げられ、
以降、作曲家を志望。中高生時代は音楽求道に邁進し、楽式論、和声法、対位法、
楽器法、管弦楽法などを独学。17歳のとき、原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。
高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学ぶ。
(中略)
2000年、それまでに書き上げた12番までの交響曲を全て破棄し、
全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。
同年から障害児のための施設にてボランティアでピアノを教える。
この施設の女児の一人は、交響曲第1番の作曲にあたり佐村河内に霊感を与え、
この作品の被献呈者となった。2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を完成。
(佐村河内守氏公式サイトより引用──上記リンク中にリンクあり)>

 うかつにも──というより、単に興味がなかっただけだが──氏のサイトにアクセスするという発想がなかったためもあり、具体的に氏の経歴をみたのは今日がはじめてであった。ここで「うかつにも」と記したのは、仮にこれをもっと早く目にしていたら、まずはここでその事実性を疑った可能性が高かったということである。
 前回も記したとおり、NHK(ブラック公共放送局)のドキュメンタリー番組は偶然みていて、そのなかで紹介されていた対位法的楽曲の作曲法について違和感を覚えた。仮にその直後にでもこの経歴を目にしていたら、作曲法への違和感とともに、ある種の疑いを抱いたに違いない。
 もっとも、それは「作曲にあたってなんらかの助っ人がいるかもしれない」というレベルで、騙られていることのすべてを疑うという意味ではない。だが、「(いかに耳が不自由だとはいえ、いやむしろそれだからこそ)このひとの作曲法には不自然なところがある」という疑念は前提としてある。

 たとえば(リンク記事にも類似の所感が示されているが)、そもそもが「ベートーヴェンやバッハを弾きこなし」たから「もう教えることはない」ってのが大爆笑モノのおたわむれ。こんなものを鵜呑みにするほうがどうかしている。いうなれば、路上画家・其風画白[伯]がのたまった「注射のやり方を習った→病院の院長になる」と同レベルのギャグにすぎない(『人生解毒波止場』根本敬・著)。また、音大=「現代音楽の作曲法」というのも理解不能な話ではある。
 もちろん、作曲や作曲法を独自に習得することは不可能ではないし、そこまでを否定しようとは思わない。経歴によればロックミュージシャンを目指していたころもあったというし、人一倍音楽が好きで、その道に憧れていたのではあろう(しかし繰り返すが、「和声」や「対位法」を独学であろうと学んだのであれば、NHKで紹介されたような作曲法とは直結しがたいのではないか?)。

 結局のところ、「耳が聞こえない」だのといったハンディキャップを「商品」にして飛びついた大衆の愚かしさこそが問題だという持論にはなんら変わりはない(商品にしたのは、供給側ばかりではないのだ)。
 いうまでもなく詐欺はだますほうが悪いに決まっているが、(一連のできごとが詐欺かどうかはともかく)このテのできごとをみるにつけ、飛びつくほうもまた愚かなのだという思いをいっそう強くした次第。

 前回記したが、いまいちど問いかけてみたい。

 こうしたハンディキャップを持つ演奏家のCD(あるいはDVDやライブ)。はたしておカネを払うひとは、どの部分に対しての対価だと思っているのだろうか。

 さて、前回の記事で佐村河内氏論評のダシに使わせてもらった「イザヤベンダサン」の経歴をみてみよう。『日本人とユダヤ人』の原本が行方不明なので、前回同様に『にせユダヤ人と日本人』(浅見定雄・著)から引用する。

<イザヤ・ベンダサン氏はまだ公衆の前に顔を見せていないけれども、彼は──とその本を出した山本七平氏主張している──神戸という港町で生まれた。彼の両親はもちろんユダヤ人で、エストニアからの亡命者だった。第二次大戦の勃発前に一家はみなアメリカへ移住した。青年イザヤは、戦争中陸軍の諜報活動に従事し、一九四五年日本へ戻り、数年後にはイスラエル独立戦争で戦い、そして再び一九五〇年に日本へ戻って来て五年間暮らした。一九五五年に彼は特許ブローカーとして日本とイスラエルと合衆国との間を往き来するようになり、インディアナ州のテリ・ホートで幸福に暮らしている。>
(151ページ。英語新聞上の『日本人とユダヤ人』書評・BJシュラクター)

 いまひとつ、同じ“作曲家”の肩書きを持っていたあの麻原彰晃のプロフィールもおつけしましょう。

<仏教・ヨーガの修行に取り組むこと約八年。一九八六年ヒマラヤにて最終解脱を果たす。その後も厳しい大乗の修行を続け、多くの弟子を指導し三五〇人以上を解脱へと導く。麻原尊師の瞑想ステージは、チベット仏教の成就者から「イェシェ」(最高の智慧を得た段階、完全なる絶対なる神の叡智)のステージであると称えられたのをはじめとして、インド・スリランカ・ブータン等伝統的な仏教国の聖者方に絶賛される。瞑想によって得た神秘力と解脱者の叡智によって、宗教のみならず科学・医学・音楽・文筆・翻訳・教育等において専門家以上の力を発揮し、危機の時代の新たな宗教家として内外から注目を集める。(以下略)>
(『シンセ音楽をたのしもう 最聖麻原彰晃尊師のベスト26』オウム出版)

 しかし、いまや麻原のそんな“経歴”を真に受けるのは熱心な信者ぐらいなものだろうし、佐村河内氏についても事実が明らかになるに違いない。ところが、ウソとペテンで塗り固めたような男・イザヤベンダサンについては、案外いまだその著作内容を含めて疑いのカケラも持っていない知識人の類が少なくないかもしれない。じつは、そっちのほうがよほど問題なのだが・・・。

*注:あの「しょ~こ~しょ~こ~」を含め、麻原死刑囚の作詞・作曲作品は多いが、実際に本人がつくったと思うひとはごくごく限られていただろう。しかも、「編曲者」としてウルベーラカッサパだのタントラギータだのといった「弟子」の名が明記されている。この点では佐村河内氏よりもいさぎよかったということか?

「しかし彼の論のすすめかたが、日本人を興がらせたのに違いない。もしこの本が日本名のだれかによって書かれていたとしたら、著者はほとんど即座に軍国主義者またはウルトラ右翼のレッテルを貼られ、本書は忘れ去られてしまっていたことであろう」

 これは、『にせユダヤ人と日本人』浅見定雄・朝日文庫)に付録として引用されたB.J.シュラクター氏の手による『日本人とユダヤ人』(イザヤベンダサン)の書評「論争の書、いまや英語に」の一節である。

 本書で浅見氏はイザヤベンダサンという人物が偽者のユダヤ人であり、出版社社長であった山本七平氏当人であることをすっぱ抜いているが、問題の『日本人とユダヤ人』はいまなお重版を重ねている超ベスト&ロングセラーである。発売当時の様子を、本書で引用されたシュラクター氏はつぎのように記している。

「一九七〇年に東京のあまり有名でない聖書関係専門の学術出版社から出るとすぐ、この『日本人とユダヤ人』は天井知らずのベストセラーとなった。
 有名人はみなこの本を読んだ。元総理大臣の佐藤栄作氏は国会でこの本を引き合いに出した。(中略)ほとんどずべての言論誌が書評を載せ、また本書とその作者にまつわる謎の物語を掲載した」

 浅見氏は付録としてこうした証言を引用しつつ、自らの学識と良識、あるいは信念にのっとって『日本人とユダヤ人』の偽書ぶりを暴いている。著者の正体なんてものはこのさい付録にすぎず、そこに書かれている内容そのものがウソだらけの“ペテン書”だということを浅見氏はおおやけにしたのであった。
 それでもなお『日本人とユダヤ人』が売れ続けているでろうことは驚嘆にあたいすると思うが、あれから半世紀が経ったいま、“ペテン書”がもたらした効果は侮りがたいものだったのだと感服せざるをえない。シュラクター氏が指摘したように、半世紀前であれば「ウルトラ右翼のレッテルを貼られ」というセンスを持っていたかもしれないわが国は、ものの見事にウルトラ右翼そのものが政権のトップに居座り、権力の中枢を握ることに成功してしまったからだ(もっとも、そろそろ化けの皮がはがれてきたとみえ、知人を含む保守的な人物からも戦争への懸念や引きずり下ろす必要があるという声を聞くようになってきたが)。
 
 しかし面白いのは、そんなウソで塗り固められたフィクション(つくり話)がこともあろうか業界内で有名かつ権威あるとされる「ノンフィクション賞」を受賞しているというところにもあろう。とてつもないペテンですね。フィクションにノンフィクションの「大賞」を授与しちゃったんですから(しかもその後に取り消しがあったワケでもない。ボクシング業界のほうがよほど清廉潔白である)。

 ところで、突然ふってわいたかのように、楽曲のつくりてをめぐっての真贋問題が浮上した。事実についてはいずれ明らかになるのだろうがオレ自身の第一印象についていえば「痛快」のひとことであった。
 問題として取りざたされていることのひとつに、NHK(ブラック公共放送)が放映した佐村河内守氏をめぐるドキュメンタリー番組がある。件の番組はタマタマだったがオレもみた。
「へぇ。こんなひともいるんだな」
「理論的には番組で説明されたような作曲法は可能だけど、(作曲法として紹介されていた)対位法的楽曲の作曲法としては不自然な面がありはしないか(とはいえ、ウソだとは思わなかった)」
「ではさて、対位法的楽曲以外ではどうなんだろう?」
 などとの感想は持ったが、多量の薬物に頼らざるを得ないほど悶絶の苦しみのなかでつくられ披露された肝心の楽曲を聴いても、さほどいい曲だとは思わなかったし、残念ながらココロにも響かなかった。なぜだかはわからないが。

 ところが世間というのは佐村河内氏的エピソードが大好きとみえ、氏の作品を収めたCDがベストセラーになったという。カネを払ったひとびとのうちのどれだけが音楽そのものを評価していらのかまでは知りようがないし、それ以前に「趣味・志向」の違いという面もあるからここではあまり踏み込まない。しかし、その作曲者の耳が聞こえないという付録がなかったら、はたしてどれだけのひとがカネをはたいたのだろうか。
 これは“にせユダヤ人”ともあるていど共通する現象ではないのか(「あるていど」というのは、“にぜユダヤ人”が別の次元でより悪質だという点をさす)。すなわち、
「もしこの曲が無名の健常者によって書かれていたとしたら、この曲は忘れ去られてしまっていたことであろう」
 ということはなかったのだろうか。言い換えると、その背景や真意はいざ知らず、大衆の心理をまんまとつかんだ現象でありビジネスだったのだ。そうしておいて事実の一端が暴露されるや右往左往して騒ぎたてる大衆。そんなザマをみるにつけ「痛快」という言葉が浮かんでくるワケだ。
 もっとも、今回は当局まで乗り出す騒ぎに発展しつつある。しかし、であれば山本ベンダサン氏やその偽作でカネモウケないしプロパガンダを続ける連中こそを問題としなければおかしい。

 この「痛快」。同じクラシック系音楽業界でいえば、たとえばハンディキャップを持つ演奏家がもてはやされているという現象にも結びつく。
 とある全盲のピアニストの演奏をテレビ番組ではじめて聴いたとき、「これは素晴らしい演奏だ!」と感激したものだ。「目がみえないなんていうのは余計なおまけ。そんな背景を知らずともこの演奏は十分に楽しめた」のである(とはいえ、CDにカネを払おうとまでは思わなかったし、もっといい演奏はいくらでもある。ようはその程度)。
 しかし同時に「“サーカス的”にビジネスツールとしてすり減らされなければいいのだが・・・」という一音楽ファンとしての懸念が芽生えるのも覚えた。
 それからときどきテレビ放送などで彼の演奏を耳にすることはあったが、あるときみたテレビ番組での演奏にはぎょっとせざるを得なかった。
「なんでこんなに音痴になってしまったのか・・・?」
 演奏はナマモノだという。したがって、タマタマその収録された演奏がそうだっただけなのかもしれない。だが、そのときの演奏からは最初に聞いたときに覚えたような感激の類は一切起きなかった。

 さて、こうしたハンディキャップを持つ演奏家のCD(あるいはDVDやライブ)。はたしておカネを払うひとは、どの部分に対しての対価だと思っているのだろうか。ひょっとするとそうした現象を含めての警鐘という意味がありはしないかということ、それが「痛快」の意味なのである。

 これは、たとえば世界遺産などにも結びつく。富士山の登山者が激増したというが、いうまでもなくその呼び込みとなったのは世界遺産への登録であろう。富士山は富士山。世界遺産なんてものはユネスコという一機関が施したデコレーションに過ぎないのに、なぜか「世界遺産だから」と飛びつくひとびと(先日、飛行機の窓に雲ひとつない富士山が浮かび上がった。韓国の航空会社だったが、「富士山がみえます」とのアナウンスがはいったほど見事な富士山風景だった(数十回乗って、そんなアナウンスははじめてだった)。が、同時にみえたのはその裾野を醜くえぐりとっている自衛隊の演習基地であった。嗚呼、世界遺産・富士山!)。

 自分自身でその価値を見出す努力を怠り、いわんやそのための感性も置き忘れ、まやかしのレッテルに操られるひとびと。今回の暴露になにを思うかはわからないが、怒ろうが悲しもうが笑い飛ばそうが、そのいずれもオレにとっては「痛快」だ。

 ひとつつけ加えると、佐村河内氏とイザヤベンダサンとの違いは、ベンダサンがメジャーレーベルであったのに対し、佐村河内氏がインディーズ的であったことであろう。日本を特殊かつ優れた国だというまやかしのテーゼを外国人が記すという手法などによって実益を勝ち得た偽書(繰り返すが、著者の正体のみならず、ノンフィクションを謳ったフィクションという点でもニセモノである)。方や広島や東日本大震災とたくみにからめつつ「現代のベートーベン」として実益を得つつあったショウ。ともに社会に漂う“空気”を利用した点でも共通点がある。しかし、その内容たるや、メジャー側のほうが比べるべくもないほど悪質だという点を強調しておく必要があるのだが。

 
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