あぁまたか……。いったいぜんたい、こうした不可解な言葉がかくも蔓延するようになったのはいつごろからなのだろうかと思う。
選抜高校野球大会の開幕が迫るなか、16日づけの「東京新聞・千葉房総版」に掲載されていた小さな記事。見出しに「感動を与える試合を」とある……。「あぁまたか」とはもちろんこの見出しに使われた言葉についてである。
選抜高校野球大会の開幕が迫るなか、16日づけの「東京新聞・千葉房総版」に掲載されていた小さな記事。見出しに「感動を与える試合を」とある……。「あぁまたか」とはもちろんこの見出しに使われた言葉についてである。
記事は千葉県から出樹尾する東海大望洋高校の野球部選手らが、地元の市原市役所において「出発式」を開いてもらったというものだ。式の席上で、市原市の佐久間隆義市長が「胸がはち切れんばかりの感動。頑張って」とのコメントとともに選手たちを激励、同部監督は「甲子園で校歌を歌いたい」と応じたという。
同市の高校としてはじめての全国大会出場だという。高校野球大会はわが国において歴史のあるスポーツ大会のひとつであるし、さまざまな意味でファンの多い催しでもあるので、この両者のやりとりは深く納得できる。オレ自身はいまやほとんど興味はなくなっているが、それでも母校野球部が全国大会本選出場を勝ち取ったとしたら、きっとテレビ観戦のひとつぐらいはするハズだ(サッカーの全国大会でももちろんいい)。
だが、肝心の選手はどうか。記事には主将のコメントのみが掲載されているけれど、こりゃいったいなんだのだとゲロのひとつでも吐き出したくなった。曰く、
「感動を与えるような試合をしたい」
……。
キミ(たち)に訊きたい。キミはスポーツマンなのか、それともエンタテイナーなのか? 全国大会への出場を果たすほどのキミたちは、いったいなんのために野球というスポーツに打ち込んでいるのか?
こうしたモノいいをしているのは、もちろん彼らだけではなく、オリンピックで金メダルをとるほどの選手もまた、好んで使っている。たぶん、そうした先輩たちの言動が積み重なることによって、自然と「そういうものだ」ぐらいの感覚になってしまったのであろう。「感動」の意味も、それを「与える」ということの意味も、おそらく反芻することなしに、ようは“気の利いた常套句”として口をついてでてしまったに違いない。あるいは「勝ち負けではなく試合内容で勝負したい」といった気持ちが込められているのかもしれないが、それにしたって恐るべき発言である(思い上がりと質すこともできよう)。悪気の類がないだけ、余計にタチが悪いのだ。
当ブログでもなんどか記してきたように、感動することの主体は受け手にこそある。映画などのエンタテイメントの制作者がそれを狙うことはあるにせよ、それで感動するかしないかは観客側の受取り方にもよるだろう。そうした「観衆を〜させたい」という狙いがスポーツ、それも高校野球というアマチュア競技の当事者にあって、観戦者に「感動を与える」ような志で試合に臨む。あえて厳しい表現をとれば、そんなものは邪念とはいわないか? 野球で例を挙げれば、アメリカ合州国で活躍中の松井やイチローのプレーや記録を目の当たりにしてある種の「感動」を覚えることはあっても、とうの(プロ)選手が「感動を与える」ために競技に賭けているのかどうかを考えれば、その勘違いが理解できるハズである(まぁ、プロスポーツはエンタテイメントの一種という意味で「感動」とやらの切り売りをしている面がなきにしにもあらずだが、それにしたって選手らは見せ物のためではなく自分自身の競技として打ち込んでいるのではないか)。
妙な言い方になるけれど、われわれ観戦者には「感動する側の権利」がある。彼らの試合なりをみて感動することはもちろんあっていいし、そういう感動こそがスポーツ観戦の醍醐味ということだっていえるからだ。だが、それははたして「与えられる」べき感情なのだろうか。この主将の「感動を与えたい」とセットの常套句に「感動をもらった」という、これまた昨今の流行語があるが、スポーツでいえば選手は自分のために競技に臨み力を尽くすのであって、「感動を与える」ためにやっているのではないハズだし、観戦して「感動する」側にしたって、その感情は「与えられた」ものではなくあくまで自発的なものではないのか。それとも、「感動」といのはそうしてひとさまに「与えられて」やっとこさ獲ることのできる感情とでもいいたいのだろうか。なんどでも言うが、心底気持ちが悪い(そういう意味で、市原市市長の「胸がはち切れんばかりの感動」が「感動した」という意味であれば、それはごく自然な感情である。間違ってもいいおとなが「胸がはち切れんばかりの感動をもらった」などとやっていなかったことを祈る)。
全国大会出場を喜ぶ高校生にこんなことを指摘するのはおとなげないかもしれないが、これはじつは彼らに向けてのモノ言いではない。問題の根幹は、かくも逆立ちしたような常套句が大手を振ってまかりとおっていることにこそあり、それをタレ流し続けているテレビをはじめとするマスメディアのセンスにこそあるからだ。
オレはあえて感動させてくれなどとはいわない。だから、キミたち選手はそんな他人の「感動」なんぞに頓着せずに、自分たちのために精一杯のいまを生きればいい。それに対して他者が「感動」するかどうかは、もはやキミたちの力が及ばない世界だ。ただそれだけのことではないか。
*補足:
たとえば、今回のタイトル『不愉快を「与えられ」た話』をみて、「アンタが勝手に不愉快に感じただけだろ?」と突っ込みのひとつでもしてみれば、「感動を与えたい」のおろかしさがみえてくるだろう。別段、「与えよう」と意図して「不愉快」にしてくれたワケでもないだろうからだ。
同市の高校としてはじめての全国大会出場だという。高校野球大会はわが国において歴史のあるスポーツ大会のひとつであるし、さまざまな意味でファンの多い催しでもあるので、この両者のやりとりは深く納得できる。オレ自身はいまやほとんど興味はなくなっているが、それでも母校野球部が全国大会本選出場を勝ち取ったとしたら、きっとテレビ観戦のひとつぐらいはするハズだ(サッカーの全国大会でももちろんいい)。
だが、肝心の選手はどうか。記事には主将のコメントのみが掲載されているけれど、こりゃいったいなんだのだとゲロのひとつでも吐き出したくなった。曰く、
「感動を与えるような試合をしたい」
……。
キミ(たち)に訊きたい。キミはスポーツマンなのか、それともエンタテイナーなのか? 全国大会への出場を果たすほどのキミたちは、いったいなんのために野球というスポーツに打ち込んでいるのか?
こうしたモノいいをしているのは、もちろん彼らだけではなく、オリンピックで金メダルをとるほどの選手もまた、好んで使っている。たぶん、そうした先輩たちの言動が積み重なることによって、自然と「そういうものだ」ぐらいの感覚になってしまったのであろう。「感動」の意味も、それを「与える」ということの意味も、おそらく反芻することなしに、ようは“気の利いた常套句”として口をついてでてしまったに違いない。あるいは「勝ち負けではなく試合内容で勝負したい」といった気持ちが込められているのかもしれないが、それにしたって恐るべき発言である(思い上がりと質すこともできよう)。悪気の類がないだけ、余計にタチが悪いのだ。
当ブログでもなんどか記してきたように、感動することの主体は受け手にこそある。映画などのエンタテイメントの制作者がそれを狙うことはあるにせよ、それで感動するかしないかは観客側の受取り方にもよるだろう。そうした「観衆を〜させたい」という狙いがスポーツ、それも高校野球というアマチュア競技の当事者にあって、観戦者に「感動を与える」ような志で試合に臨む。あえて厳しい表現をとれば、そんなものは邪念とはいわないか? 野球で例を挙げれば、アメリカ合州国で活躍中の松井やイチローのプレーや記録を目の当たりにしてある種の「感動」を覚えることはあっても、とうの(プロ)選手が「感動を与える」ために競技に賭けているのかどうかを考えれば、その勘違いが理解できるハズである(まぁ、プロスポーツはエンタテイメントの一種という意味で「感動」とやらの切り売りをしている面がなきにしにもあらずだが、それにしたって選手らは見せ物のためではなく自分自身の競技として打ち込んでいるのではないか)。
妙な言い方になるけれど、われわれ観戦者には「感動する側の権利」がある。彼らの試合なりをみて感動することはもちろんあっていいし、そういう感動こそがスポーツ観戦の醍醐味ということだっていえるからだ。だが、それははたして「与えられる」べき感情なのだろうか。この主将の「感動を与えたい」とセットの常套句に「感動をもらった」という、これまた昨今の流行語があるが、スポーツでいえば選手は自分のために競技に臨み力を尽くすのであって、「感動を与える」ためにやっているのではないハズだし、観戦して「感動する」側にしたって、その感情は「与えられた」ものではなくあくまで自発的なものではないのか。それとも、「感動」といのはそうしてひとさまに「与えられて」やっとこさ獲ることのできる感情とでもいいたいのだろうか。なんどでも言うが、心底気持ちが悪い(そういう意味で、市原市市長の「胸がはち切れんばかりの感動」が「感動した」という意味であれば、それはごく自然な感情である。間違ってもいいおとなが「胸がはち切れんばかりの感動をもらった」などとやっていなかったことを祈る)。
全国大会出場を喜ぶ高校生にこんなことを指摘するのはおとなげないかもしれないが、これはじつは彼らに向けてのモノ言いではない。問題の根幹は、かくも逆立ちしたような常套句が大手を振ってまかりとおっていることにこそあり、それをタレ流し続けているテレビをはじめとするマスメディアのセンスにこそあるからだ。
オレはあえて感動させてくれなどとはいわない。だから、キミたち選手はそんな他人の「感動」なんぞに頓着せずに、自分たちのために精一杯のいまを生きればいい。それに対して他者が「感動」するかどうかは、もはやキミたちの力が及ばない世界だ。ただそれだけのことではないか。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
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