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猫池罵詈雑言雑記帳
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 原発問題をめぐって、いわゆる御用学者らの“仕事ぶり”がクローズアップされている。カネのためかニセモノとはいえ名誉の類のためかはわからないが、自らの研究にバイアス──それも権力の意向に沿った──をかけ、さまざまな肩書きを武器に大衆を騙す。専門的知識を必要とする世界である。どうせ大方の庶民にはわかりようがないと驕り高ぶったうえで繰り返される“ペテン”である。
 重大な問題のひとつは、そうして表明された事実なり虚構なりが、いざ部門違いとなれば相当の知識人であっても追試や検証が困難な場合があるところにあろう。いかに疑いを持ったところで、その道の専門家でなければ反論しえない面があまりにも大きいからだ。しかし、さらなる問題として挙げておかねばならないのは、それがきちんとした仕事だろうと、あるいはペテンであろうと、ごく庶民感覚としては「偉い先生」がたによる研究や調査として流布されてしまうところにある。大学の立派な教授だから……というワケだが、はたしてそれはそのとおりなのだろうか。

「わかりません」
 個人的な取材の途上、とある学者がそう答えた。それまでひとつひとつの問いに対し丁寧に答えていただいていただけに、そのぶっきらぼうな即答につかのま戸惑った。しかしなんのことはない。じつはその質問そものものがその学者にとっての専門外だったのである。彼が仮に医学者だとすれば、その学者が専門とする胃の話をしていたところに、こちらが脳について質問したようなシチュエーションで、ひょっとするとその問いていどであれば答えられたとしても、あえて回答を避けたのであろう。さして高度な質問でもないし、シロウトにしてみれば「同じ医学だろ」と言いたくなるかもしれないが、違う。件の学者はあくまで専門の学者として取材に応じてくれていたからである。
 そのときの学者の対応には、学ぶところが大きかった。学者とは専門家なのである。仮に教授なり名誉教授なりの肩書きがあっても、それはあくまで専門分野に対してのそれである。医学でも物理学でも言語学でもあるいは芸術でもいいが、本来は、そのなかで細分化された分野でのみ通用する実績であり“権威”といえるだろう。したがって、同じ医学分野であろうと、胃の専門家が脳に対し言及を避けるのはあたりまえのことといえる。

 ところが、現実はどうか。“医学者”というカテゴリで話を続ければ、書店や新聞紙上の新刊広告などをみていると、単に「医学博士」の肩書きでさまざまな本が出されている。読者としては、「医学博士」の著書ということによって内容を信用する。だが、その著者が持つ「博士号」や「教授」といった肩書きは、はたしてその著作の分野についてのものだろうかという疑問を持ってもいいのではないか。専門外どころか、その著作(商品)の分野についての論文すら一遍もまとめた実績を持たない例もあるのではないか。そういう視点でみて、「なんでこの話題にこのヒトが?」という疑問がわいてくる。もっとも、これには編集側の都合もあるようでがあるが……。
 もちろん、専門家でもなんでもないジャーナリストが記事を書き上げるように、たとえ専門分野でなくとも信頼しうる仕事をしているひとも大勢いる。むしろ、専門家であろうとなかろうと本質的には関係のない話であり、ようはそこできちんとした仕事ができているのかということが問題の根幹ではある。だが、ジャーナリストという肩書きが権威でもなんでもないのとは異なり、専門家に冠せられる「博士号」「教授」などは立派に権威として通用するところに問題がありはしないだろうかと思うのだ。したがって、専門外の仕事においては、そんな肩書きを標榜してはならないのではないのか? たとえば、「肺ガン」の記事のコメントに「消化器系」を専門とする医者を医者の肩書きで出してみたり、「中国史専門」教授が「イスラム学」の著作を出すのに(たとえ相応の研究をしていようと)「教授」の肩書きでいいのかということである。著者略歴に入れるのは正当ではあるけれど、そこのはあくまでなにが専門の「教授」であり「博士」なのかを明らかにしなければ不十分といえるだろう(単発の雑誌寄稿なども同様)。

 漫画家の手塚治虫氏が医学博士の資格を持っていたことはよく知られている。「ブラック・ジャック」のように医療をテーマとした作品もある。だが、手塚氏は「医学博士」の肩書きでマンガを発表してきたわけではない(しかし、なおそれでもミスが生じ、「医学博士」という事実と関連づけられた事件もあった)。
 こんなあたりまえのことをあえて記したのは、じつは“御用学者”の類だけをあげつらってのことではない。たとえば、原発問題にさいして目下そうした“御用学者”とは相対するかのような発言をしている権威者たちはどうだろうか。分野はそれこそさまざまに及んでおり、なかには専門分野にも立脚して発言している学者もいる。あくまでこちらがシロウトゆえ具体的な言及は避けるが、しかしそれらは必ずしも信頼できうる内容ばかりなのだろうかとも思う(該当する例は、某“左翼”系言論誌にもみられた。久々に開いてみて「なんでここにコイツが!?」と失礼ながら仰天した次第。あまり礼を失してはならないのでイニシャルにするけど、WサンとかIサンとか。御記事に目を通してみたが、ご自分の自慢話やら方向違いの余談やら一般論ばかりでちっとも面白くなかった)。

 こういうことは本来は表ざたにしてはならないのだが、出版という仕事に携わってきたなかで、そうした権威たちの仕事のなかにいかにいい加減なシロモノが多いかということも実体験としてある。なかにはかなりの読者やファンを掴んでいる学者もいるが、彼らが単に「〜博士」なり「〜大学教授」ということで専門外の分野を商売のタネとし、しかも専門外であるハズの肩書きを用いて記事や本を売る。それがときに誤った大衆誘導の役割を果たす。なにかおかしいとは思わないだろうか?
 そうした本が商品になる前の状態はおよそ専門学徒によるとは思えないシロモノだったこともある。単に“本屋”というだけでまったくのシロウトであるこちらからみてもクビをかしげることだらけで、ワープロ原稿を打ち出したA4用紙を赤字(訂正依頼や疑問の抽出など)で埋めつくしたことも一度や二度ではない(もちろん逆のケースだって少なくないが)。しかし冷静になってみればそれもそのハズで、繰り返すようだけれど書き手自身がその専門家でもジャーナリストでもなんでもないのだからあたりまえなのである。そうしたなかには、専門家というよりも現代人のひとりとして「黙ってはいられない!」(拙ブログもそうだが)という姿勢が感じられるものもあり、ときに興味深い事実や視点を示してくれることもある。だがであればなお、専門外の分野に言及するのであれば学者としての肩書きを用いてはならないのではないかと思うのだ。下世話なことを指摘すれば、専門外のことで、どこまで自身の肩書きに責任を持てますかということになろう(悪いけれど、近ごろ評判の“?”某大学のセンセの記事など、その主張はさておき、話半分としてもどこまで信用できるのやらと思ったものだ。あくまで個人の所感ではあるが……)。  翻って、ここに記したようなことだけで著作や記事(コメントを含む)を判断するというのも危険だが、読者としては自己防衛の意味を含め、いちいち立ち止まってみることも必要ということであろう。自戒の意味を含めつくづくそう思う。

*補足:
 あやふやな表現ながら、あえて特定の雑誌や書き手を示唆したが、必ずしも当該の人物について批判するものではないことをつけくわえておきたい。ここでの問題は、あくまで肩書きに対する冷静な視点を持ちたいということだからだ。ただし、そうした肩書き云々を含め、それが権力と結びつくケース(御用学者のほか、提灯持ちなどはこれにあたる)については話は異なるわけだが……。
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自己紹介:
 レジャーライター=植村誠の別館ブログです。
 ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
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