くだらねぇ……。そう思った。
全国高校野球全国大会で好成績をおさめた某校野球部の生徒が飲酒、それが発覚して騒ぎになっているという。なんでも予定されていた凱旋行進の類を中止しただの、大方予想されるどおりの顛末が伝えられているが、そんなもん、まとめて「だらない」と断言しておく。……そういうわけで、ちょっと遅ればせながら高校野球雑感を。
全国高校野球全国大会で好成績をおさめた某校野球部の生徒が飲酒、それが発覚して騒ぎになっているという。なんでも予定されていた凱旋行進の類を中止しただの、大方予想されるどおりの顛末が伝えられているが、そんなもん、まとめて「だらない」と断言しておく。……そういうわけで、ちょっと遅ればせながら高校野球雑感を。
当該の生徒は停学処分だという。それはいい。未成年の飲酒は法律でも禁止されており、当然のこととしておとなや社会はそれ相応の態度を示さなければならないし、それもひとつの教育だと考えるからだ。だが、あえていえば、それはそれほどのおおごとなのだろうか? テレビや新聞を問わず全国ニュースでさらしものにし、「あの野球部部員が!」と騒ぎ立てるような“事件”なのだろうか。
ハッキリいえば、あんなものは各自で叱責するなり、必要ならば校則に則り処罰すればいいだけの話で、わざわざ公的に明らかにするような性質のできごとではない。
だいたいが、そうやっておとなになってゆくというのが少年時代なのではないか? 飲酒はもとよりタバコ、パチンコ、エロ……。そうした未成年に禁じられている性質ものでなくともちょっとしたハメ外しやケンカなどを体験しながら成長してゆくものではないのか。オレ自身のことを明かせば、タバコはそのころから嫌悪しておりいまなお吸おうとも思わないし、パチンコなんかも同様なんだが、酒を飲むぐらいのことはいくらでもしたし、友だち同士でコッソリとエロ本なんぞを入手して鑑賞するのも、あの当時としてはちょっとしたドキドキの連続であった。
いちど高校の担任に対し飲酒を白状したことがある。友だち数人と連れ立って授業をサボり、隠れて一杯やってたのだが、担任としてはそんなのはすでにお見通し。「いいから正直にいえ」というワケだ。すると、一発小突くいたのかひっぱたかれたのかは忘れたが叱責を浴びせたうえで静かにこう諭した。
「おまえらがそうして酒を飲んだといって、“ワル”にならないとわかっている」
つまりは、(未成年なんだし)酒を飲むのはいけない。だが、そこで留まっているのを信じているしわかっているというのである。しかしこのひとことはいまなお一種の“座右の銘”になっている。いやむしろなんらかの処罰の類よりもよほど少年ゴコロに効いた。
そうしてそれでもなおときおりはコッソリ一杯やってみたりもしたものだが、自分たちなりにハメを外す限度を自覚し、自然とおとなになっていったのである(まっ、あまりロクなモンでもないかもしれないが・笑)。その後、たとえば教員実習なども体験したものだが、そのときも担任のひとことを無意識に反芻しながら生徒にぶつかっていったし、それは社会に出てからも心のどこかで生きている。
というのは自分自身のごくかぎられたエピソードにすぎないが、転じてみてみれば、件の高校が飲酒生徒に下した停学だの野球部パレード中止だの一連の発表と報道だのが、はたしてだれのためなのかという疑問にたどりつく。あんなものは単に権力側の保身あるいはそのためのポーズにすぎないのではないのか? そりゃぁたしかになにか形だけでも整えなければという考えもあろうけれど、それははたして教育者という立場を見つめ直したときに最善の策だと強弁できるのだろうかと思うのである。もちろん、ケンカの度を越えた暴行事件だったり同じ酒でもコッソリの限度を越えたようなケースであれば話も若干は異なってくるのだろうが、繰り返すように生徒個々と向き合って叱責なり指導をすれば、まずはそれで済む類の話なのではないだろうか……。
それにしても。高校野球なんぞじつはほとんど興味がないのだが、それでもクルマのなかでラジオ中継を耳にするぐらいのことはした(出身校が全国大会に進むとか地元校が勝ち進んだりすればいくらかは注目するし、テレビ観戦ぐらいはするだろうけどようはそんなもの。テレビやらラジオやらを独占しての中継なんぞ、そろそろ見直したらどうか?)。そしたら「ああ、やっぱり……」と暗澹たる気分にさせられた。
試合後の監督インタビュー。その試合はかなりの好試合というか逆転につぐ逆転で観戦するにはスリルのある内容だったようだが、勝利側監督のひとことがすごかった。いわく、
「なんとか勝たせてもらいました」
だってよ。すると対戦相手は「勝たせて差し上げた」のか? これほど相手を小バカにしたセリフもないのだが、こんなのがフツーに飛び出して大半のひとびとがなんら疑問を感じていないのが高校野球なのだ。ほかにも「子どもたちがやってくれました」の類もあったなァ。選手たちはほかならぬ自分自身と自分のチームの勝利を目指して戦っているのであって、監督のために野球をやってあげているワケでもないだろうに(たとえば、キメどころで活躍した特定の選手が「やってくれた」というのはまた部の話。また、監督自身がでなく、チーム全体での意味として「やってくれた」ということもあるのだろうが、はたしてそれだけか?)。ついでにいえば、近ごろは「選手」と呼ぶのもふつうになったが、あの「子どもたち」というのもなんだかよくわからないいいようではある。
くわえて、本番(試合)の場で野球のプロである監督がいっちいち口を挿むのにも違和感を覚える。もとより、それが野球という競技なのだという見方もあるだろうが、あれがタテマエとしても「教育」の一環として位置づけられているのであれば、ここはあえて監督をベンチ外に置くというやり方だってあるのではないのだろうか(たとえばラグビーのように)。監督は練習をもって選手らに野球を教え、実戦の場ではその力を主役である選手自らが発揮してゆく。場面ごとの作戦や選手起用なども然り。それで失敗したとしても、それが「教育」なのではあるまいか? むしろそこで発揮されなければならない自主性こそがなにものにも代え難い経験となるのではないかと思うのだが、「やってくれた」にも窺えるように、だれのための競技なのか知れたものでないのが高校野球という見方だってできるかもしれない。……ところでサッカーなどほかの学校競技は大丈夫かな?
ハッキリいえば、あんなものは各自で叱責するなり、必要ならば校則に則り処罰すればいいだけの話で、わざわざ公的に明らかにするような性質のできごとではない。
だいたいが、そうやっておとなになってゆくというのが少年時代なのではないか? 飲酒はもとよりタバコ、パチンコ、エロ……。そうした未成年に禁じられている性質ものでなくともちょっとしたハメ外しやケンカなどを体験しながら成長してゆくものではないのか。オレ自身のことを明かせば、タバコはそのころから嫌悪しておりいまなお吸おうとも思わないし、パチンコなんかも同様なんだが、酒を飲むぐらいのことはいくらでもしたし、友だち同士でコッソリとエロ本なんぞを入手して鑑賞するのも、あの当時としてはちょっとしたドキドキの連続であった。
いちど高校の担任に対し飲酒を白状したことがある。友だち数人と連れ立って授業をサボり、隠れて一杯やってたのだが、担任としてはそんなのはすでにお見通し。「いいから正直にいえ」というワケだ。すると、一発小突くいたのかひっぱたかれたのかは忘れたが叱責を浴びせたうえで静かにこう諭した。
「おまえらがそうして酒を飲んだといって、“ワル”にならないとわかっている」
つまりは、(未成年なんだし)酒を飲むのはいけない。だが、そこで留まっているのを信じているしわかっているというのである。しかしこのひとことはいまなお一種の“座右の銘”になっている。いやむしろなんらかの処罰の類よりもよほど少年ゴコロに効いた。
そうしてそれでもなおときおりはコッソリ一杯やってみたりもしたものだが、自分たちなりにハメを外す限度を自覚し、自然とおとなになっていったのである(まっ、あまりロクなモンでもないかもしれないが・笑)。その後、たとえば教員実習なども体験したものだが、そのときも担任のひとことを無意識に反芻しながら生徒にぶつかっていったし、それは社会に出てからも心のどこかで生きている。
というのは自分自身のごくかぎられたエピソードにすぎないが、転じてみてみれば、件の高校が飲酒生徒に下した停学だの野球部パレード中止だの一連の発表と報道だのが、はたしてだれのためなのかという疑問にたどりつく。あんなものは単に権力側の保身あるいはそのためのポーズにすぎないのではないのか? そりゃぁたしかになにか形だけでも整えなければという考えもあろうけれど、それははたして教育者という立場を見つめ直したときに最善の策だと強弁できるのだろうかと思うのである。もちろん、ケンカの度を越えた暴行事件だったり同じ酒でもコッソリの限度を越えたようなケースであれば話も若干は異なってくるのだろうが、繰り返すように生徒個々と向き合って叱責なり指導をすれば、まずはそれで済む類の話なのではないだろうか……。
それにしても。高校野球なんぞじつはほとんど興味がないのだが、それでもクルマのなかでラジオ中継を耳にするぐらいのことはした(出身校が全国大会に進むとか地元校が勝ち進んだりすればいくらかは注目するし、テレビ観戦ぐらいはするだろうけどようはそんなもの。テレビやらラジオやらを独占しての中継なんぞ、そろそろ見直したらどうか?)。そしたら「ああ、やっぱり……」と暗澹たる気分にさせられた。
試合後の監督インタビュー。その試合はかなりの好試合というか逆転につぐ逆転で観戦するにはスリルのある内容だったようだが、勝利側監督のひとことがすごかった。いわく、
「なんとか勝たせてもらいました」
だってよ。すると対戦相手は「勝たせて差し上げた」のか? これほど相手を小バカにしたセリフもないのだが、こんなのがフツーに飛び出して大半のひとびとがなんら疑問を感じていないのが高校野球なのだ。ほかにも「子どもたちがやってくれました」の類もあったなァ。選手たちはほかならぬ自分自身と自分のチームの勝利を目指して戦っているのであって、監督のために野球をやってあげているワケでもないだろうに(たとえば、キメどころで活躍した特定の選手が「やってくれた」というのはまた部の話。また、監督自身がでなく、チーム全体での意味として「やってくれた」ということもあるのだろうが、はたしてそれだけか?)。ついでにいえば、近ごろは「選手」と呼ぶのもふつうになったが、あの「子どもたち」というのもなんだかよくわからないいいようではある。
くわえて、本番(試合)の場で野球のプロである監督がいっちいち口を挿むのにも違和感を覚える。もとより、それが野球という競技なのだという見方もあるだろうが、あれがタテマエとしても「教育」の一環として位置づけられているのであれば、ここはあえて監督をベンチ外に置くというやり方だってあるのではないのだろうか(たとえばラグビーのように)。監督は練習をもって選手らに野球を教え、実戦の場ではその力を主役である選手自らが発揮してゆく。場面ごとの作戦や選手起用なども然り。それで失敗したとしても、それが「教育」なのではあるまいか? むしろそこで発揮されなければならない自主性こそがなにものにも代え難い経験となるのではないかと思うのだが、「やってくれた」にも窺えるように、だれのための競技なのか知れたものでないのが高校野球という見方だってできるかもしれない。……ところでサッカーなどほかの学校競技は大丈夫かな?
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
なお、トラックバックおよび「コメント」は受けつけない設定にしております(当面はBBSへどうぞ!)。
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