世の中デタラメだらけ。
原発関連だけをみても、その導入から開発、建設、稼動、廃棄物処理、事故、そしてそれらすべてに対する対応……。ウソツキ公僕が開き直り、数千万円もの血税を合法としてせしめる。そんな輩だからこそ、どうせ天下り先が用意されているのであろう。ウソと無知とが交錯し、国民と国とを死に体に導いてゆく。そんななか現実味を帯びてきたのが民主・自民・公明による大連立である。
原発関連だけをみても、その導入から開発、建設、稼動、廃棄物処理、事故、そしてそれらすべてに対する対応……。ウソツキ公僕が開き直り、数千万円もの血税を合法としてせしめる。そんな輩だからこそ、どうせ天下り先が用意されているのであろう。ウソと無知とが交錯し、国民と国とを死に体に導いてゆく。そんななか現実味を帯びてきたのが民主・自民・公明による大連立である。
国民みずからが騙されていたことを早々に気づいた(?)民主党政権だが、その前段で形としては「見限られた」ハズの自創前政権と手を組むというのだから、これはもうデタラメの極致としか言いようがないだろう。
彼らの打ち出す表向きはこうだ。すなわち、「(大連立によって)意思決定を迅速にしてお互い責任を持ち合う」(野田佳彦財務相)。震災復興や原発問題、さらに経済の立て直しなど重要課題が満載しているなかで、これはいかにもそれらしく聞こえるが、彼らが目指す政策については、いみじくも政界フィクサー気取りの“クズ紙”「読売」が「社説(11日)」をもって代弁している。消費税増税。原発再稼動および輸出。TPPへの早急な参加。噛み砕いていえば、財界(カネ持ち)優遇を継続するために庶民増税を強化しろということであり、同じく財界のモウケのためにさっさと原発を動かせということであり、これまた日米財界のカネづるためにわが国の食糧を売り渡せということである。ここには一般国民にとっての幸福も見出せなければ、自国への誇りすら喪失しかねない愚劣ぶり、彼らが好む言葉いえば“売国”的発想すら充満している。
かくのごとくの愚策を、見限られた新旧政権政党がくっついて進めようというのだ。こういうのをお先真っ暗とはいわないだろうか……?
■明治憲法の亡霊
少し話を代えて。今年も相当数の政治家が靖国神社への公式参拝をした。毎度おなじみ石原のおとっつぁんは閣僚が参拝を見送ったことについて、あいつらは日本人なのかのごとく一席ぶったそうだが、こうした発言を知るにつけ、差別と反動とが一心同体であることを噛み締めざるをえない。
靖国についてはなんどか触れてきたが、あれが明治天皇および当時の政権による国威発揚および戦意高揚を目的とした施設だということは否定のしようがないだろう。その創建の由来はどうか? 天皇のために死んだ人間のみを「英霊」とし、天皇が彼らを慰霊するというものである。言い換えれば、天皇の命令によって戦争に身を投じ、その結果亡くなったひとびとが祀られているわけだ(ただし、軍人外として、いわゆる「銃後」に置かれ亡くなった国民は「英霊」とはされておらず、たとえ銃や爆弾を手にしていなくとも戦場の住人とされていたことには目が向いていないようだが……)。
そうした先人たちが身を投じさせられた戦争には、場合によっては「防衛」的な側面もあったことはあえて否定しないし、真に「祖国」を慮ったり、あるいは天皇と政権が主張してきたように「八紘一宇」を信じてしたひともあろう(同時に、国家の強制に対し「やむを得ず」駆り出されていったひとも少なくないに違いない)。だが、それらが同時に周辺諸国への侵略行為や虐殺、破壊を含んでいたこともまた否定しえない事実である。たとえ欧米諸国によるアジア侵略という事実があったとしてもだ。それを一切の反省もなく「威徳」として賞賛する。真に祖国の未来を慮るのであれば、失敗は失敗として事実に向き合い、そのうえで先人たちの労苦を評価すべきではないかと思うのだが、とうの神社とその国家護持を主張するひとびとにとっては、自分にとっての不都合な事実などなきものにしたいというのが本音なのであろう(※念のため。一般の参拝者や遺族までが一緒だとは思っていない。ここでは国家護持にからむ権力を問題にしている)。
そうした本音も、単に一個人なり任意集団なりが主張しているぶんには自由というものかもしれない。だが、政治家らが自らの権力をかさに進めてゆくとなると話はまるっきり変わってくる。そもそもが、敗戦とともに一宗教法人となったため国家の庇護を享受できなくなった歴史を持つのが靖国神社である。しかし、それが単に一宗教法人として、国家権力の類とは無縁に神事をまっとうするというのであれば大きな問題とはならないのだ。そうしたなかで、遺族や関係者らが慰霊するのは信者にとっては正当だし、あるいは「威徳」を「威徳」として讃えることも自由だ。しかし、再び権力と一体化する、あるいはさせようという動きについてはやはり敏感にならざるをえない。
靖国神社国家護持の主張は、いわば明治憲法あるいは明治憲法的憲法の復活を意味するといっていいのではないか。それはすなわち、天皇を絶対権力者として復権させ、現在の民主主義国家を否定することにつながる。
明治憲法(大日本帝国憲法)……。
●第1条:大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス
●第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ
●第11条:天皇ハ陸海軍を統帥ス
しかし、かくのごとく天皇が権力者であったのは、古代はともかく、明治から昭和20年8月15日の敗戦までのわずか3代にすぎない。たとえば明治天皇の「偉業」を讃えるのもいいし、個人的にもそう考えている部分も多々あるが、しかしその第1条(の精神)からして明治憲法発布以前はどうだったのかを考えてもいいのではないだろうか。繰り返すが、わが国の長い歴史のなかにあって、わずか天皇3代(正しくは2代半)の期間にあったにすぎない制度・思想が、どうして“保守”論拠となろうか? あるいは“愛国心”の?
ほぼ例外なく、靖国の国家護持に熱心なひとびとは現日本国憲法の改定を主張し目指しているといっていい。一般には、その標的が「第9条」だとされ、おもにその点こそが“改憲派”と“護憲派”との争点であるかのように強調されているが、しかし本丸は明治憲法的天皇制の復活ではないのか? そこでは民主主義は否定ないし著しく制限され、選民思想的な制度も権力を伴って復活するに違いない。石原慎太郎だのの発言にそれが顕在しているが、これは財界にとってもきわめて好都合な転換になろう。それを国の発展と解釈するのも自由というものだが、少なくとも石原のいうような「日本人」にはなりたくないものだとあらためて思ったこの夏であった。
彼らの打ち出す表向きはこうだ。すなわち、「(大連立によって)意思決定を迅速にしてお互い責任を持ち合う」(野田佳彦財務相)。震災復興や原発問題、さらに経済の立て直しなど重要課題が満載しているなかで、これはいかにもそれらしく聞こえるが、彼らが目指す政策については、いみじくも政界フィクサー気取りの“クズ紙”「読売」が「社説(11日)」をもって代弁している。消費税増税。原発再稼動および輸出。TPPへの早急な参加。噛み砕いていえば、財界(カネ持ち)優遇を継続するために庶民増税を強化しろということであり、同じく財界のモウケのためにさっさと原発を動かせということであり、これまた日米財界のカネづるためにわが国の食糧を売り渡せということである。ここには一般国民にとっての幸福も見出せなければ、自国への誇りすら喪失しかねない愚劣ぶり、彼らが好む言葉いえば“売国”的発想すら充満している。
かくのごとくの愚策を、見限られた新旧政権政党がくっついて進めようというのだ。こういうのをお先真っ暗とはいわないだろうか……?
■明治憲法の亡霊
少し話を代えて。今年も相当数の政治家が靖国神社への公式参拝をした。毎度おなじみ石原のおとっつぁんは閣僚が参拝を見送ったことについて、あいつらは日本人なのかのごとく一席ぶったそうだが、こうした発言を知るにつけ、差別と反動とが一心同体であることを噛み締めざるをえない。
靖国についてはなんどか触れてきたが、あれが明治天皇および当時の政権による国威発揚および戦意高揚を目的とした施設だということは否定のしようがないだろう。その創建の由来はどうか? 天皇のために死んだ人間のみを「英霊」とし、天皇が彼らを慰霊するというものである。言い換えれば、天皇の命令によって戦争に身を投じ、その結果亡くなったひとびとが祀られているわけだ(ただし、軍人外として、いわゆる「銃後」に置かれ亡くなった国民は「英霊」とはされておらず、たとえ銃や爆弾を手にしていなくとも戦場の住人とされていたことには目が向いていないようだが……)。
そうした先人たちが身を投じさせられた戦争には、場合によっては「防衛」的な側面もあったことはあえて否定しないし、真に「祖国」を慮ったり、あるいは天皇と政権が主張してきたように「八紘一宇」を信じてしたひともあろう(同時に、国家の強制に対し「やむを得ず」駆り出されていったひとも少なくないに違いない)。だが、それらが同時に周辺諸国への侵略行為や虐殺、破壊を含んでいたこともまた否定しえない事実である。たとえ欧米諸国によるアジア侵略という事実があったとしてもだ。それを一切の反省もなく「威徳」として賞賛する。真に祖国の未来を慮るのであれば、失敗は失敗として事実に向き合い、そのうえで先人たちの労苦を評価すべきではないかと思うのだが、とうの神社とその国家護持を主張するひとびとにとっては、自分にとっての不都合な事実などなきものにしたいというのが本音なのであろう(※念のため。一般の参拝者や遺族までが一緒だとは思っていない。ここでは国家護持にからむ権力を問題にしている)。
そうした本音も、単に一個人なり任意集団なりが主張しているぶんには自由というものかもしれない。だが、政治家らが自らの権力をかさに進めてゆくとなると話はまるっきり変わってくる。そもそもが、敗戦とともに一宗教法人となったため国家の庇護を享受できなくなった歴史を持つのが靖国神社である。しかし、それが単に一宗教法人として、国家権力の類とは無縁に神事をまっとうするというのであれば大きな問題とはならないのだ。そうしたなかで、遺族や関係者らが慰霊するのは信者にとっては正当だし、あるいは「威徳」を「威徳」として讃えることも自由だ。しかし、再び権力と一体化する、あるいはさせようという動きについてはやはり敏感にならざるをえない。
靖国神社国家護持の主張は、いわば明治憲法あるいは明治憲法的憲法の復活を意味するといっていいのではないか。それはすなわち、天皇を絶対権力者として復権させ、現在の民主主義国家を否定することにつながる。
明治憲法(大日本帝国憲法)……。
●第1条:大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス
●第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ
●第11条:天皇ハ陸海軍を統帥ス
しかし、かくのごとく天皇が権力者であったのは、古代はともかく、明治から昭和20年8月15日の敗戦までのわずか3代にすぎない。たとえば明治天皇の「偉業」を讃えるのもいいし、個人的にもそう考えている部分も多々あるが、しかしその第1条(の精神)からして明治憲法発布以前はどうだったのかを考えてもいいのではないだろうか。繰り返すが、わが国の長い歴史のなかにあって、わずか天皇3代(正しくは2代半)の期間にあったにすぎない制度・思想が、どうして“保守”論拠となろうか? あるいは“愛国心”の?
ほぼ例外なく、靖国の国家護持に熱心なひとびとは現日本国憲法の改定を主張し目指しているといっていい。一般には、その標的が「第9条」だとされ、おもにその点こそが“改憲派”と“護憲派”との争点であるかのように強調されているが、しかし本丸は明治憲法的天皇制の復活ではないのか? そこでは民主主義は否定ないし著しく制限され、選民思想的な制度も権力を伴って復活するに違いない。石原慎太郎だのの発言にそれが顕在しているが、これは財界にとってもきわめて好都合な転換になろう。それを国の発展と解釈するのも自由というものだが、少なくとも石原のいうような「日本人」にはなりたくないものだとあらためて思ったこの夏であった。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
なお、トラックバックおよび「コメント」は受けつけない設定にしております(当面はBBSへどうぞ!)。
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