震災被災地の一部では、少しずつ復旧の兆候がみられているようだが、それとともにさらに悲惨な被害状況も明らかになってきた。避難しているひとびとの生活も、今後を含め不透明な部分も多く、なによりもまず国家や国民を挙げて協同して手当てにあたることが目下の最重要課題だとあらためて思う。
一方で震災報道の“主役”となった感のある原発問題。復旧ということでは、たとえば高速道路の開通状況が著しいが、そこには「ただし書き」が添えられており、すなわち福島第一および第二原発地域を除くというありさまで、こうした点でも原発事故が重大なマイナスとなっていることがわかる。
一方で震災報道の“主役”となった感のある原発問題。復旧ということでは、たとえば高速道路の開通状況が著しいが、そこには「ただし書き」が添えられており、すなわち福島第一および第二原発地域を除くというありさまで、こうした点でも原発事故が重大なマイナスとなっていることがわかる。
そんな状況のなか、気になっていることのひとつに経済の沈滞がある。いわゆる「自粛」ムードということなのか、さまざまな分野での消費の手控えが蔓延しつつあるのではないかということだ。先だって、地元房総の南部を廻ってみたら、ふだんの週末ならひっきりなしに行き交っているハズのクルマの通行がまずまばら。観光施設の類も当然のようにガラガラであった。ひとつには件のガソリン不足騒動が尾を引いているということもあるかもしれないが、それ以上に「出かける気にもならない」あるいは「こんなときに遊びに行っていいものなのか?」という“空気”が漂っているように感じる。調べている最中ではあるが、宿泊業者などもかなりの影響を受けているのではないだろうか。
こんな大惨事の最中である。仮に行楽に出かけるにしても、どこか落ち着かないというのは人間としてごくふつうの感情だと思うし、あるいは、そのおカネを被災地に回すほうがいいという考えや実行があるとすれば、それはそれで素晴らしいことだと思う。被災者や被災地を慮るのはある意味当然のことである。だが、だとしても日常には遊びもあれば笑顔もある。他愛のない冗談やグチの類を飛ばせば、「くだらないなぁ」と思いつつもテレビ番組に興じるのだって日常であろう。感じているのは、どうもそういう“日常のあたりまえ”すら否定したがるムードが醸成されつつあるのではないかということなのである。
はたせるかな、最低最悪レベルの大馬鹿者が、やれ花見を止めろなどと一席ぶっていたようだ。戦時中はこんなものじゃなかったといった筋違いの比較もしてみせたらしい。「あぁ、バカがまた……」と心底情けなくなったものだ。
断っておくが、花見をあえて止めるのも悪いとはいわないし、戦時中や終戦直後の混乱やモノ不足などを連想しつつこういう事態を乗り切ってゆく“精神論”だってダメだと切り捨てるつもりもない。だが、これらはあくまで個人やせいぜい小さな集団レベルでそれぞれが考え判断すべきことであり、為政者ら権力者があれこれ口を挟む、いわんや強制すべきことではないのだ。馬鹿のオツムのなかには、官製の精神論「欲しがりません 勝つまでは」式の発想があるのに違いないが(それとて個人がそう考え実践することは勝手というものだ)、なんども繰り返すようだけれど、「おまえにそれが言えたクチかよ?」とシラケた怒りしか湧いてこないのである。あの石原慎太郎という男には。
「こんなものじゃなかった」というあの破廉恥男、ホントにそのとおりの(本人の錯覚ではなくまごうことなき市井人の感覚として)生活を戦時中に強いられたのか? せいぜいが、「オレたちは特別なのだ」とでもふんぞり返って贅沢を享受していたということではないのか? あんな勃起陰茎で障子にアナボコを開ける三流ポルノまがいの三文小説で出世したようなお下劣男である。血税で贅沢三昧を繰り広げ続けてきた(いる?)浮き世離れ男である。てめぇは安全な高台にふんぞり返って、なにを偉そうにぶってんだ? まっ、あんな男を評していると、こっちの気分がささくれ立つし、ただでさえほめられたモノじゃない品性がますます下がりそうだからこのへんにしておくけれど、東京都民の有権者のみなさんよ、まっさかあんなのを知事に居座らせたりはしすまいねぇ? ホント。万が一そうなっちゃったら、中華人民共和国やら北朝鮮やらのことを笑えないどころか、実態はさらにひどい。なにしろ、彼らが独裁政権下にあって圧政に遭っている(中国と北朝鮮とではレベルが違うが)のに対して、東京都民ときたら民主的に自らのクビを締めるという選択をするワケだからなァ……。もちろん、あんな男でも支持したりファンだったりするのも自由だし、あの男の言論を評価するのもいい。しかし、だったらなおのこと一介の市井人というか元の職業だったらしいモノ書きに戻してやって、そこで自由に発言させておあげなさい。それが心あるファンというものです。
閑話休題。
「社会人になって以来の最大のヒマだ!」
服飾業界で働く友人が嘆いていた。きっとこの業界も相当に影響を蒙るだろうと思っていた矢先で、むしろこんなに早く影響が出るとまでは思っていなかったので驚かされもした(勤務する会社そのものは比較的順調だったようだが、震災を機にそんな状態にあるらしい)。実際、ショッピングセンターなどを歩いても、活況というにはほど遠いようにみえるし、件の“自粛”ムードの影響が出ているのかもしれない。
自分自身の立場でいえば、出版業界の今後は思いきり心配である。とりわけ広告収入に対する依存度が高いメディアへの影響はどうか。真面目な話、今後数年間にわたって相当に厳しい状況(発注減=収入減)に置かれる可能性はけっして低くないとすら思う。手をこまねいているワケにはいかないので自分なりに対策を講じているつもりだが、直接的に被災していないのがまだしも……ということになりかねないのである。とくに、旅行関係の記事を中心にやっていることもあり、観光業界に対する影響もこちらに波及することは目にみえている。
ほかの業界もさまざまであろう。だが、あえて強がりを提案したいのは、“自粛”と畏縮とは違うということである。けっして明るいムードになれないいまだが、過剰に畏まってしまっては、遠からず自らの生活にそれが跳ね返えってくるのではないかと思うからだ。それどころでない直接の被災者は大勢いる。しかし一方で直接の被害を受けなかったか、あるいは微少で済んだひとびとやコミュニティのほうがむしろ大半なのである。そういうところまでが畏縮してしまったのでは、わが国の経済はますます縮こまってしまうのではないか。気持ちとして、あるいは物資の提供などを通して他者を慮ると同時に、自らの日常は日常として活発に動く。そこにはレジャーもあり、娯楽もあり、日常レベルでの贅沢だってある。それがひいては被災地をはじめとするわが国の危機を乗り切るための力となるのではないかと思うのだが……。
*注:
今回のアップは、前々回の「無意識と善意が傲慢化するの巻」で記したことと相通ずる自分なりの疑問について考えてみたものである。そこで感じているある種の不快感とは必ずしも一致しないとは思うが、藤原新也氏がつぎのような一文をブログにアップしていたのを読んで、「然り!」と思わずヒザを叩いたものだ。
※「攻める姿勢のチャリティイベント全国行脚!」
こんな大惨事の最中である。仮に行楽に出かけるにしても、どこか落ち着かないというのは人間としてごくふつうの感情だと思うし、あるいは、そのおカネを被災地に回すほうがいいという考えや実行があるとすれば、それはそれで素晴らしいことだと思う。被災者や被災地を慮るのはある意味当然のことである。だが、だとしても日常には遊びもあれば笑顔もある。他愛のない冗談やグチの類を飛ばせば、「くだらないなぁ」と思いつつもテレビ番組に興じるのだって日常であろう。感じているのは、どうもそういう“日常のあたりまえ”すら否定したがるムードが醸成されつつあるのではないかということなのである。
はたせるかな、最低最悪レベルの大馬鹿者が、やれ花見を止めろなどと一席ぶっていたようだ。戦時中はこんなものじゃなかったといった筋違いの比較もしてみせたらしい。「あぁ、バカがまた……」と心底情けなくなったものだ。
断っておくが、花見をあえて止めるのも悪いとはいわないし、戦時中や終戦直後の混乱やモノ不足などを連想しつつこういう事態を乗り切ってゆく“精神論”だってダメだと切り捨てるつもりもない。だが、これらはあくまで個人やせいぜい小さな集団レベルでそれぞれが考え判断すべきことであり、為政者ら権力者があれこれ口を挟む、いわんや強制すべきことではないのだ。馬鹿のオツムのなかには、官製の精神論「欲しがりません 勝つまでは」式の発想があるのに違いないが(それとて個人がそう考え実践することは勝手というものだ)、なんども繰り返すようだけれど、「おまえにそれが言えたクチかよ?」とシラケた怒りしか湧いてこないのである。あの石原慎太郎という男には。
「こんなものじゃなかった」というあの破廉恥男、ホントにそのとおりの(本人の錯覚ではなくまごうことなき市井人の感覚として)生活を戦時中に強いられたのか? せいぜいが、「オレたちは特別なのだ」とでもふんぞり返って贅沢を享受していたということではないのか? あんな勃起陰茎で障子にアナボコを開ける三流ポルノまがいの三文小説で出世したようなお下劣男である。血税で贅沢三昧を繰り広げ続けてきた(いる?)浮き世離れ男である。てめぇは安全な高台にふんぞり返って、なにを偉そうにぶってんだ? まっ、あんな男を評していると、こっちの気分がささくれ立つし、ただでさえほめられたモノじゃない品性がますます下がりそうだからこのへんにしておくけれど、東京都民の有権者のみなさんよ、まっさかあんなのを知事に居座らせたりはしすまいねぇ? ホント。万が一そうなっちゃったら、中華人民共和国やら北朝鮮やらのことを笑えないどころか、実態はさらにひどい。なにしろ、彼らが独裁政権下にあって圧政に遭っている(中国と北朝鮮とではレベルが違うが)のに対して、東京都民ときたら民主的に自らのクビを締めるという選択をするワケだからなァ……。もちろん、あんな男でも支持したりファンだったりするのも自由だし、あの男の言論を評価するのもいい。しかし、だったらなおのこと一介の市井人というか元の職業だったらしいモノ書きに戻してやって、そこで自由に発言させておあげなさい。それが心あるファンというものです。
閑話休題。
「社会人になって以来の最大のヒマだ!」
服飾業界で働く友人が嘆いていた。きっとこの業界も相当に影響を蒙るだろうと思っていた矢先で、むしろこんなに早く影響が出るとまでは思っていなかったので驚かされもした(勤務する会社そのものは比較的順調だったようだが、震災を機にそんな状態にあるらしい)。実際、ショッピングセンターなどを歩いても、活況というにはほど遠いようにみえるし、件の“自粛”ムードの影響が出ているのかもしれない。
自分自身の立場でいえば、出版業界の今後は思いきり心配である。とりわけ広告収入に対する依存度が高いメディアへの影響はどうか。真面目な話、今後数年間にわたって相当に厳しい状況(発注減=収入減)に置かれる可能性はけっして低くないとすら思う。手をこまねいているワケにはいかないので自分なりに対策を講じているつもりだが、直接的に被災していないのがまだしも……ということになりかねないのである。とくに、旅行関係の記事を中心にやっていることもあり、観光業界に対する影響もこちらに波及することは目にみえている。
ほかの業界もさまざまであろう。だが、あえて強がりを提案したいのは、“自粛”と畏縮とは違うということである。けっして明るいムードになれないいまだが、過剰に畏まってしまっては、遠からず自らの生活にそれが跳ね返えってくるのではないかと思うからだ。それどころでない直接の被災者は大勢いる。しかし一方で直接の被害を受けなかったか、あるいは微少で済んだひとびとやコミュニティのほうがむしろ大半なのである。そういうところまでが畏縮してしまったのでは、わが国の経済はますます縮こまってしまうのではないか。気持ちとして、あるいは物資の提供などを通して他者を慮ると同時に、自らの日常は日常として活発に動く。そこにはレジャーもあり、娯楽もあり、日常レベルでの贅沢だってある。それがひいては被災地をはじめとするわが国の危機を乗り切るための力となるのではないかと思うのだが……。
*注:
今回のアップは、前々回の「無意識と善意が傲慢化するの巻」で記したことと相通ずる自分なりの疑問について考えてみたものである。そこで感じているある種の不快感とは必ずしも一致しないとは思うが、藤原新也氏がつぎのような一文をブログにアップしていたのを読んで、「然り!」と思わずヒザを叩いたものだ。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
なお、トラックバックおよび「コメント」は受けつけない設定にしております(当面はBBSへどうぞ!)。
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