そもそもなぜ話題を振りまいているかといえば、問題の作品が、犯行当時“少年”だった被告の実名が明かされていることがあり、裁判が継続中の同事件を担当する弁護士らが出版の差し止めを求めてきたことなどが報道されたからであろう。
じつは、件の本をいまだ手にすらとっていないこともあって、本来ならばこうした意見を記すことを控えるべきだというふうにも思うのだが、あれこれ考えた末、少しだけ触れてみることにした(*注)。いくつかの報道をみるかぎりでは、同書のルポルタージュとしての内容やその評価以前の問題として、単に「実名が記されている」という1点ばかりがクローズアップされている感があり、ここでもそれにならってみることにしたのだ。したがって、作品云々については埒外ということになってしまうが、ある意味、きわめて危険なことが起きていることを指摘しておきたい。
容疑者の本名で作品を上梓することについて、著者側は「“元少年”という表記は記号にすぎず、彼への人権侵害ではないか。ひとりの人間としての彼を感じてもらうため、実名表記に踏み切った」と主張する一方、弁護士側は「少年法に基づき、実名報道は許されるものではない」とし、容疑者本人が実名公表を認めていないと抗議している。
こうした点についていえば、少年法云々という点を含め判断に迷う部分は大きい。個人的には、ルポルタージュを書くにあたって登場人物は実名(芸名など通り名の場合もあるが)を原則としているが、書かれる側が持つなんらかの事情によってはもちろん例外もある。だが、読む側の視点でみると、それが実名であることにどれだけの必然性があるのかという見方だってできないわけではないだろう(ただし、そうした事情をさておいても実名で描かなければならないケースだって多々ある)。そういう視点で著者側の考えに同意はできるけれど、「彼への人権侵害」という部分や「(読者に)彼を感じてもらうため」といったくだりの正当性につてはやや疑問がある。少年法の解釈や被告が認めた認めないといった部分を除けば、実名を明かすことが作品にとって必要だったのかどうか、著者側として問題とすべきはこの1点ではないかと思うからだ。人権云々や受け手に対するおしぎせは単なる言い訳にすぎない。
そういうわけで、作品そのものへの感想や評価は実物を読ませてもらってからでないと言及できないのだが、この事件で気になったのはそうしたやりとりではなく、弁護士側によるつぎの主張であった。
「本人は出版前に原稿をみせてもらって実名掲載の可否を決めるつもりだったが、原稿 はみせてもらえなかった」
これはどういうことだろうか。取材を受けた側として被告本人が「原稿に目を通したい」というのであれば、その気持ちは理解できる。単純な事実誤認が起きるリスクを回避する手段として事前の確認の意味もあると思うからだ。したがって、実名云々について著者が要求を受け入れる必要があるかは疑問だが、にも関わらずここで実名云々が問題視されているということは、すなわち弁護側をして「事実関係ではなく実名か匿名か」に主眼を置いている姿勢を、表向きはみせているからではないのだろうか。
個人的には、こうしたケースで事前公開をする必要などないと考えているが、そのために取材の段階で相手の了解をとることもあるし、取材内容によっては事実関係で問題となる可能性のある個所のみについて確認を依頼することがないわけではない(たとえば旅行ものなどガイド主体であったり、あくまで版元の方針で例外を認めるケースはあります)。しかし、原則はあくまで発売までの事前公開はせず、いわんや事前検閲に相当するような要求を認めるわけにはいかない。これは個人的にということではなく、ジャーナリズムの大原則であろう。
ところが、今回の事件ではこともあろうか弁護士たる者が事実上の事前検閲を当然のこととして認めかねないような発言をしており、そのセンスに身震いをせざるをえない。いったいぜんたい、ジャーナリズムというものをどのように捉えているのだろうか。いわんや、「可否を決める」権利など、そんなところにあろうハズがないのである。
「可否」ということは、内容によっては、あるいは描き方によっては実名表記を認める可能性もあるということである。つまり、それはこの要求がルポの内容そのものの事前検閲であることを問わず語りに認めたことにはなりはしまいか。被告が実名表記を認めた認めないでも対立があるが、それはそれとしても、弁護側の真の狙いはなんなのだろうかと思わざるをえない。
それにしても。報道の大半が「実名」云々に留まり、ルポの内容そのものについての言及がほとんどないのはどうしたわけだろうか(実名表記をウリに営業しているのであれば、それを批判することには賛成できるが)。弁護士が事実上の事前検閲を求めるというジャーナリズム崩壊の主張をしているかもしれないのである。仮に、ルポそのものの内容に欠点があるのであれば作品として論評すればいいだけの話ではあるのだが、それをせずに実名騒動のみをクローズアップし、さらにあぶない要求を看過しているようにしかみえないのだ。メディアたるもの、もっと敏感になってもいいのではないかと思うのだが……。
*注:
現物を読んでからアップする予定でしたが、入手に手こずっていることと、時宜を逸する心配などから、ルポ内容に触れずに言及できるところのみアップしてみました。
じつは、件の本をいまだ手にすらとっていないこともあって、本来ならばこうした意見を記すことを控えるべきだというふうにも思うのだが、あれこれ考えた末、少しだけ触れてみることにした(*注)。いくつかの報道をみるかぎりでは、同書のルポルタージュとしての内容やその評価以前の問題として、単に「実名が記されている」という1点ばかりがクローズアップされている感があり、ここでもそれにならってみることにしたのだ。したがって、作品云々については埒外ということになってしまうが、ある意味、きわめて危険なことが起きていることを指摘しておきたい。
容疑者の本名で作品を上梓することについて、著者側は「“元少年”という表記は記号にすぎず、彼への人権侵害ではないか。ひとりの人間としての彼を感じてもらうため、実名表記に踏み切った」と主張する一方、弁護士側は「少年法に基づき、実名報道は許されるものではない」とし、容疑者本人が実名公表を認めていないと抗議している。
こうした点についていえば、少年法云々という点を含め判断に迷う部分は大きい。個人的には、ルポルタージュを書くにあたって登場人物は実名(芸名など通り名の場合もあるが)を原則としているが、書かれる側が持つなんらかの事情によってはもちろん例外もある。だが、読む側の視点でみると、それが実名であることにどれだけの必然性があるのかという見方だってできないわけではないだろう(ただし、そうした事情をさておいても実名で描かなければならないケースだって多々ある)。そういう視点で著者側の考えに同意はできるけれど、「彼への人権侵害」という部分や「(読者に)彼を感じてもらうため」といったくだりの正当性につてはやや疑問がある。少年法の解釈や被告が認めた認めないといった部分を除けば、実名を明かすことが作品にとって必要だったのかどうか、著者側として問題とすべきはこの1点ではないかと思うからだ。人権云々や受け手に対するおしぎせは単なる言い訳にすぎない。
そういうわけで、作品そのものへの感想や評価は実物を読ませてもらってからでないと言及できないのだが、この事件で気になったのはそうしたやりとりではなく、弁護士側によるつぎの主張であった。
「本人は出版前に原稿をみせてもらって実名掲載の可否を決めるつもりだったが、原稿 はみせてもらえなかった」
これはどういうことだろうか。取材を受けた側として被告本人が「原稿に目を通したい」というのであれば、その気持ちは理解できる。単純な事実誤認が起きるリスクを回避する手段として事前の確認の意味もあると思うからだ。したがって、実名云々について著者が要求を受け入れる必要があるかは疑問だが、にも関わらずここで実名云々が問題視されているということは、すなわち弁護側をして「事実関係ではなく実名か匿名か」に主眼を置いている姿勢を、表向きはみせているからではないのだろうか。
個人的には、こうしたケースで事前公開をする必要などないと考えているが、そのために取材の段階で相手の了解をとることもあるし、取材内容によっては事実関係で問題となる可能性のある個所のみについて確認を依頼することがないわけではない(たとえば旅行ものなどガイド主体であったり、あくまで版元の方針で例外を認めるケースはあります)。しかし、原則はあくまで発売までの事前公開はせず、いわんや事前検閲に相当するような要求を認めるわけにはいかない。これは個人的にということではなく、ジャーナリズムの大原則であろう。
ところが、今回の事件ではこともあろうか弁護士たる者が事実上の事前検閲を当然のこととして認めかねないような発言をしており、そのセンスに身震いをせざるをえない。いったいぜんたい、ジャーナリズムというものをどのように捉えているのだろうか。いわんや、「可否を決める」権利など、そんなところにあろうハズがないのである。
「可否」ということは、内容によっては、あるいは描き方によっては実名表記を認める可能性もあるということである。つまり、それはこの要求がルポの内容そのものの事前検閲であることを問わず語りに認めたことにはなりはしまいか。被告が実名表記を認めた認めないでも対立があるが、それはそれとしても、弁護側の真の狙いはなんなのだろうかと思わざるをえない。
それにしても。報道の大半が「実名」云々に留まり、ルポの内容そのものについての言及がほとんどないのはどうしたわけだろうか(実名表記をウリに営業しているのであれば、それを批判することには賛成できるが)。弁護士が事実上の事前検閲を求めるというジャーナリズム崩壊の主張をしているかもしれないのである。仮に、ルポそのものの内容に欠点があるのであれば作品として論評すればいいだけの話ではあるのだが、それをせずに実名騒動のみをクローズアップし、さらにあぶない要求を看過しているようにしかみえないのだ。メディアたるもの、もっと敏感になってもいいのではないかと思うのだが……。
*注:
現物を読んでからアップする予定でしたが、入手に手こずっていることと、時宜を逸する心配などから、ルポ内容に触れずに言及できるところのみアップしてみました。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
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