アメリカ合州国によるウサマビンラディン氏殺害事件。殺害された人物が本当に一連のテロの主犯だったのか、あるいは標的どおりの人物だったのかなど、あれこれ取り沙汰されているが、さしあたりオレの感情に触れたのは殺害に歓喜する(と伝えられる)アメリカ合州国市民の姿とセンスであり、ほぼ100%に近く殺害が支持された(らしい)というあの国の世論調査である。
殺害ということについていえば、たとえば写真家の藤原新也氏が氏のブログにひとつの論評をアップしている。
※「証拠写真という定理のない時代。──Shinya talk」
そこには氏によるコラージュ写真「オバマビンラディン」の肖像が掲載されており、そこにはつぎのようなコメントが添えられている。
「オバマ・ビンラディンの合成写真は単なるジョークではなくノーベル平和賞の受賞者も殺人を犯すことがあるという意味を含んだカリカチュアである。」(リンク記事)
さて、そんな殺人劇に歓喜するアメリカ合州国市民と国家首脳。殺されたのはテロの首謀者とされた個人であり(一連の一方的戦争において)さまざまに巻き添えを食った無辜の市民だが、
嗚呼、まさにこういうセンスで広島・長崎に原爆を投下したのだなぁ……。
としみじみ思った。さらにいえば東京をはじめわが国に無差別空爆が加えられ、あるいはベトナムが焦土と化し、ハゲタカファンドの類が他国の経済を蹂躙する。そしてその背後に「歓喜する」アメリカ合州国の無辜(無知)の市民たちがおり、国を指導者がおり、それらを牛耳る連中がいる。
彼らにとって、戦争相手だったわが国は明確な敵であり、(天皇については目こぼしがあったものの)ときの指導者たちは、ようはビンラディンと同義であり、わが国の国民ひとりひとりもまた“テロリスト”あった。したがって、原爆の炸裂によって歓喜した連中が、それこそ「ほぼ100%」に近くあったとしてもおかしくはないし、まさにそういうセンスによって“建国”以前から他民族や対抗者を殺害してきたのがアメリカ合州国という国家であり、じつは国民ひとりひとりにしみついている宿痾だといってもあながち言い過ぎではないのではないか(「ジェロニモ作戦」などと符牒させたあたりにもそんなセンスが顕在している)。ただし、今回はわが国のときの指導者たちに対するのとは異なり、裁判をはじめとする事実を明らかにする一切の手続きすら省いており、そういう見地からすればあの国は荒廃し後退しているともいえるだろう。この手続きを省いた点や彼らにとっての“戦利品”であるハズの死体を早々に破棄した点などから、なんらかの証拠隠しも取り沙汰されているが、荒廃と後退とは、そうしたできごとを含めてのことである。
ところで、なにげにテレビをつけたらアメリカ映画「評決」がはじまり、こりゃ懐かしいとついつい最後までみてしまった。面白かった。
一介の弁護士が経済力でも組織力でも圧倒的な権力を持つ連中と戦う物語だが、法廷の終盤で語られたひとことひとことが、じつはアメリカ合州国という国に対する皮肉なようにも感じられもした。力やカネのあるヤツらと相対して、やがて「なにをやってもムダだ」と諦める側。法に則った不正義。正義はどこにあるのだ。それは必ずしも諦めなければならないものなのか……? まさにそうして虐げられる側にある種の対抗力発露されたというのは、実際のテロリズムを語るにキレイゴトにすぎるかもしれない。一方で、あくまで言論で丸腰で闘えというのも、立場によってはキレイゴトになってしまうだろう。なんにせよ、無差別かつ道連れ虐殺としてのテロを支持するつもりは毛頭ないけれど、しかし一般的アメリカ合州国国民が、自らが「虐げる側」としての自覚をなんら持たず、一方的合法や正義感を振り回していままさに虐殺を続けている事実はどうか。まさにあの映画はそうした無自覚をも問題にしていたのではないかと思うのだが、おそるべきは、まだしもああいう映画を生み出してきたアメリカ合州国映画の昨今にも窺うことができるかもしれない。
※「証拠写真という定理のない時代。──Shinya talk」
そこには氏によるコラージュ写真「オバマビンラディン」の肖像が掲載されており、そこにはつぎのようなコメントが添えられている。
「オバマ・ビンラディンの合成写真は単なるジョークではなくノーベル平和賞の受賞者も殺人を犯すことがあるという意味を含んだカリカチュアである。」(リンク記事)
さて、そんな殺人劇に歓喜するアメリカ合州国市民と国家首脳。殺されたのはテロの首謀者とされた個人であり(一連の一方的戦争において)さまざまに巻き添えを食った無辜の市民だが、
嗚呼、まさにこういうセンスで広島・長崎に原爆を投下したのだなぁ……。
としみじみ思った。さらにいえば東京をはじめわが国に無差別空爆が加えられ、あるいはベトナムが焦土と化し、ハゲタカファンドの類が他国の経済を蹂躙する。そしてその背後に「歓喜する」アメリカ合州国の無辜(無知)の市民たちがおり、国を指導者がおり、それらを牛耳る連中がいる。
彼らにとって、戦争相手だったわが国は明確な敵であり、(天皇については目こぼしがあったものの)ときの指導者たちは、ようはビンラディンと同義であり、わが国の国民ひとりひとりもまた“テロリスト”あった。したがって、原爆の炸裂によって歓喜した連中が、それこそ「ほぼ100%」に近くあったとしてもおかしくはないし、まさにそういうセンスによって“建国”以前から他民族や対抗者を殺害してきたのがアメリカ合州国という国家であり、じつは国民ひとりひとりにしみついている宿痾だといってもあながち言い過ぎではないのではないか(「ジェロニモ作戦」などと符牒させたあたりにもそんなセンスが顕在している)。ただし、今回はわが国のときの指導者たちに対するのとは異なり、裁判をはじめとする事実を明らかにする一切の手続きすら省いており、そういう見地からすればあの国は荒廃し後退しているともいえるだろう。この手続きを省いた点や彼らにとっての“戦利品”であるハズの死体を早々に破棄した点などから、なんらかの証拠隠しも取り沙汰されているが、荒廃と後退とは、そうしたできごとを含めてのことである。
ところで、なにげにテレビをつけたらアメリカ映画「評決」がはじまり、こりゃ懐かしいとついつい最後までみてしまった。面白かった。
一介の弁護士が経済力でも組織力でも圧倒的な権力を持つ連中と戦う物語だが、法廷の終盤で語られたひとことひとことが、じつはアメリカ合州国という国に対する皮肉なようにも感じられもした。力やカネのあるヤツらと相対して、やがて「なにをやってもムダだ」と諦める側。法に則った不正義。正義はどこにあるのだ。それは必ずしも諦めなければならないものなのか……? まさにそうして虐げられる側にある種の対抗力発露されたというのは、実際のテロリズムを語るにキレイゴトにすぎるかもしれない。一方で、あくまで言論で丸腰で闘えというのも、立場によってはキレイゴトになってしまうだろう。なんにせよ、無差別かつ道連れ虐殺としてのテロを支持するつもりは毛頭ないけれど、しかし一般的アメリカ合州国国民が、自らが「虐げる側」としての自覚をなんら持たず、一方的合法や正義感を振り回していままさに虐殺を続けている事実はどうか。まさにあの映画はそうした無自覚をも問題にしていたのではないかと思うのだが、おそるべきは、まだしもああいう映画を生み出してきたアメリカ合州国映画の昨今にも窺うことができるかもしれない。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
なお、トラックバックおよび「コメント」は受けつけない設定にしております(当面はBBSへどうぞ!)。
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