「しんぶん赤旗」のコラム「潮流」によれば、竹中平蔵氏(元経済財政担当相)が「世は不公平」と語ったそうな(2月24日づけ)。
コラムによれば……というのは肝心の雑誌が入手できていないからだが……『週刊東洋経済』の2月24日号の誌上で、正規雇用者の給与が高いのに対して、パートなどの非正規雇用者が低い給料しかもらっていない、ゆえに“不公平”だという主旨で語っているという。すべての“正規労働者”の“給与が高い”がどうかはとにかくとして、パートや派遣社員といったひとびとの給与が低いことは否定できない事実だから、これだけを読むと、氏の考えを知る者にとっては「おや?」という感じがする。しかも、最低賃金の引き上げすら提案しているというのである。これはちょっとした事件であろう。
ところが、パートなどの最低賃金引き上げと引き換えに、正規雇用者の労働条件(賃金だけでなく就労時間、あるいは福利厚生の類を含むのだろう)を厳しくせよというオチがつく。すなわち、正規雇用者の給料が高いので、パートにまでゆきわたらないということらしいのだ。
コラムをみてタケナカという男についてあらためて仰天したので、ある友人に紹介してみたところ、
「ホントのアホか? ますます格差が拡がるだけではないか」
と真っ当至極な感想をもらしMASITA。
しかし、これこそがタケナカ流経済論の根幹をなすものではないのか? なにしろ「一部の金持ちが稼ぎ、ほかのひとはそのおこぼれをもらっていればいい、皆で貧乏になるよりはそのほうがいいでしょう?」というのが彼のスタンダードだからだ(画像参照。*注)。そこにあるのは格差とはなんぞや? と問い返すべきレベルの話ではない。ごく限られた“エリート層”が既得権益をもってカネをこねくりまわし、その他大半の“貧乏人ども”は黙って働いてりゃぁいいという考えであり、とうの御自身がなにものなのかはわからないけれど、同胞たる日本人を家畜扱いしてやまないレトロあるいはSF的センスの持ち主だということを問わず語りに証明しているのである(いまさらながらだが)。
ついでに書けば、彼のセンスでは、経済の発展の根拠となりうるのが錬金術の類にすぎないのだろう。連鎖する閉鎖的幻影経済とでもいえばいいだろうか。真面目な“ものづくり”なんかクソくらえ! そういう本質的な部分での生産性に乏しいカネの循環。そんなもので仮に一時的な向上がみられたとしても、それはまやかしなのではないかとシロウトなりに考えてみたりする。しかもはじめる前から勝利者枠が締切られているようなイカサマ競争だ。“勝者”はアメリカ合州国の大資本であり、そこから最初の“おこぼれ”にあずかるのが、わが国の如才なき大資本であり、その残滓を大衆が得る……。
それにしても、底上げをすることによって大衆間にある格差の是正をするのではなしに、上位(といってもこれも“おこぼれ”にすぎないのだが)の水準を下げろという摩訶不思議な論はどうか。空前の利益を上げている大企業の腹はなんら痛まないで済むところにも特徴があるが、ようは竹中氏の目からみれば国民の大半を占める勤労者は“下層”に位置するコマに過ぎないのであろう。人間はアリやハチではないのだが。
件のコラムには、現政権が画策する「母子家庭の生活保護費に子育て支援をおりこむ母子加算の廃止」が「生活保護を受けていない母子家庭との『公平性』を欠く」という発想に基づく施策だとし、「私立より安いから不公平だ、という理屈をもちだし」国立大学の授業料を上げると指摘する。ひたすら弱きをくじく政策であろう。
こうした考えに染まった政権があり、推進する側にある人物が権力を握る現代日本。しかしやられっぱなしの側がその愚劣さに気がつかない限りは、まさにどうしようもない。
こんな“羞悪な日本”を嘆いて、ここでひとつ、オレの世代にとってはちょっと懐かしいマンガから一節を引用してみよう。『ガクラン八年組』(しもさか保著・講談社コミックス)である。
場面は自校が優勝候補のサッカー部の決勝戦ではなく弱小野球部の応援に乗り込んだ主人公(応援団団長=西条大鉄)が、なぜサッカーの試合に来なかったのかと教頭らに詰め寄られるシーンである。大鉄のセリフ。
「わいらはたしかに応援団や 試合があればどんな部かて出ばったるわい けどのーっ ほっといても自分で勝てる部となんぼ必死にやってもだめな部と その両方の部が同じ日に試合やるとしたら・・・ わいはだめなほうの部を応援したる!! 自分たちの力で勝てんから応援したるんじゃい!!」(1巻・67ページ)
こういう気概を、いまの日本に期待するほうが間違いなのだろうか。
*注:
「経済格差を認めるか認めないか、現実の問題としてはもう我々に選択肢はないのだと思っています。みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うか、道は後者しかないのです。米国では、一部の成功者が全体を引っ張ることによって、全体がかさ上げされて、人々は満足しているわけです。実質賃金はあまり伸びないけれども、それなりに満足しているのです」(『日経ビジネス』2000年7月10日号。一部強調は管理者による)
やや私事ながら……、N社長、これが焼肉をごちそうになったさいの雑談で、「ホントにそんなバカなこと言ってるのか?」を驚かれたその発言であります。
*画像説明:
都合というか手抜きで硬貨の数が少ないが、写っている硬貨を“富”ととらえていただきたい。ここでは台の上に載せて一部がこぼれているけれど、イメージとしては台の中身にも“富”が集められている。台からこぼれて机上にわずかに散らばったぶんが、われわれ庶民に対する分け前にあたるわけだが、分配ではなしに「こぼれちゃったぶん」である点にも注意する必要があろう。やや抽象的ではあるにせよ、要はこういう図式こそがタケナカ流の経済論であり、「それなりに満足」の根拠だということはいえる。
しかし忘れてはならないのだが、台に溢れている“富”にしても、“(タケナカいわくの)おこぼれにあずかっているひとびと”なしにはなしえないものである。その生産にせよ消費にせよ。
コラムをみてタケナカという男についてあらためて仰天したので、ある友人に紹介してみたところ、
「ホントのアホか? ますます格差が拡がるだけではないか」
と真っ当至極な感想をもらしMASITA。
しかし、これこそがタケナカ流経済論の根幹をなすものではないのか? なにしろ「一部の金持ちが稼ぎ、ほかのひとはそのおこぼれをもらっていればいい、皆で貧乏になるよりはそのほうがいいでしょう?」というのが彼のスタンダードだからだ(画像参照。*注)。そこにあるのは格差とはなんぞや? と問い返すべきレベルの話ではない。ごく限られた“エリート層”が既得権益をもってカネをこねくりまわし、その他大半の“貧乏人ども”は黙って働いてりゃぁいいという考えであり、とうの御自身がなにものなのかはわからないけれど、同胞たる日本人を家畜扱いしてやまないレトロあるいはSF的センスの持ち主だということを問わず語りに証明しているのである(いまさらながらだが)。
ついでに書けば、彼のセンスでは、経済の発展の根拠となりうるのが錬金術の類にすぎないのだろう。連鎖する閉鎖的幻影経済とでもいえばいいだろうか。真面目な“ものづくり”なんかクソくらえ! そういう本質的な部分での生産性に乏しいカネの循環。そんなもので仮に一時的な向上がみられたとしても、それはまやかしなのではないかとシロウトなりに考えてみたりする。しかもはじめる前から勝利者枠が締切られているようなイカサマ競争だ。“勝者”はアメリカ合州国の大資本であり、そこから最初の“おこぼれ”にあずかるのが、わが国の如才なき大資本であり、その残滓を大衆が得る……。
それにしても、底上げをすることによって大衆間にある格差の是正をするのではなしに、上位(といってもこれも“おこぼれ”にすぎないのだが)の水準を下げろという摩訶不思議な論はどうか。空前の利益を上げている大企業の腹はなんら痛まないで済むところにも特徴があるが、ようは竹中氏の目からみれば国民の大半を占める勤労者は“下層”に位置するコマに過ぎないのであろう。人間はアリやハチではないのだが。
件のコラムには、現政権が画策する「母子家庭の生活保護費に子育て支援をおりこむ母子加算の廃止」が「生活保護を受けていない母子家庭との『公平性』を欠く」という発想に基づく施策だとし、「私立より安いから不公平だ、という理屈をもちだし」国立大学の授業料を上げると指摘する。ひたすら弱きをくじく政策であろう。
こうした考えに染まった政権があり、推進する側にある人物が権力を握る現代日本。しかしやられっぱなしの側がその愚劣さに気がつかない限りは、まさにどうしようもない。
こんな“羞悪な日本”を嘆いて、ここでひとつ、オレの世代にとってはちょっと懐かしいマンガから一節を引用してみよう。『ガクラン八年組』(しもさか保著・講談社コミックス)である。
場面は自校が優勝候補のサッカー部の決勝戦ではなく弱小野球部の応援に乗り込んだ主人公(応援団団長=西条大鉄)が、なぜサッカーの試合に来なかったのかと教頭らに詰め寄られるシーンである。大鉄のセリフ。
「わいらはたしかに応援団や 試合があればどんな部かて出ばったるわい けどのーっ ほっといても自分で勝てる部となんぼ必死にやってもだめな部と その両方の部が同じ日に試合やるとしたら・・・ わいはだめなほうの部を応援したる!! 自分たちの力で勝てんから応援したるんじゃい!!」(1巻・67ページ)
こういう気概を、いまの日本に期待するほうが間違いなのだろうか。
*注:
「経済格差を認めるか認めないか、現実の問題としてはもう我々に選択肢はないのだと思っています。みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うか、道は後者しかないのです。米国では、一部の成功者が全体を引っ張ることによって、全体がかさ上げされて、人々は満足しているわけです。実質賃金はあまり伸びないけれども、それなりに満足しているのです」(『日経ビジネス』2000年7月10日号。一部強調は管理者による)
やや私事ながら……、N社長、これが焼肉をごちそうになったさいの雑談で、「ホントにそんなバカなこと言ってるのか?」を驚かれたその発言であります。
*画像説明:
都合というか手抜きで硬貨の数が少ないが、写っている硬貨を“富”ととらえていただきたい。ここでは台の上に載せて一部がこぼれているけれど、イメージとしては台の中身にも“富”が集められている。台からこぼれて机上にわずかに散らばったぶんが、われわれ庶民に対する分け前にあたるわけだが、分配ではなしに「こぼれちゃったぶん」である点にも注意する必要があろう。やや抽象的ではあるにせよ、要はこういう図式こそがタケナカ流の経済論であり、「それなりに満足」の根拠だということはいえる。
しかし忘れてはならないのだが、台に溢れている“富”にしても、“(タケナカいわくの)おこぼれにあずかっているひとびと”なしにはなしえないものである。その生産にせよ消費にせよ。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
なお、トラックバックおよび「コメント」は受けつけない設定にしております(当面はBBSへどうぞ!)。
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