たとえば外国旅行。アメリカ合州国でもいいし大韓民国でもいいしロシア、フィリピン、フランス、イタリア……。たいていは旅先で街歩きをしたり買い物もするだろうし食堂にも入る。当然、現地で暮らすひとびととのかかわり合いも生まれてくる。そこでの印象はいろいろだろう。おいしい料理にめぐりえあえば「食事の旨い国」、買い物のさい店員につっけんどんな接客をされれば「サービスがよくない国」、道に迷ったりして親切にされたるすると「親切なひとが多い国」などとついステレオタイプ的に思う部分があっても仕方のないことかもしれない。まぁ、なんどか脚を運ぶうちにさまざまなできごとと遭遇するわけで、そういういい加減な印象というのはその場その場の出逢いに左右されてしまうわけなのだろうが、そうだとはわかっていても、旅の気分の善し悪しがその後にわたってものの見方に影響することはあるに違いない。
たとえとして外国旅行としたけれど、これは国内旅行でもまったく一緒といっていいし、もっといえば生まれてこのかたの社会全体に対する印象もまた同じだといっていいのではないかと思う。旅行先でよほどの酷い目に遭ったとしても、再訪しなければそのままイヤな印象を抱きつつも日常生活にはたいして影響しないが、これがいままさに暮らしているこの社会のこととなると問題は大きくなる。なにしろ逃げ出すわけにもいかないのだからたいへんだ。
ごく最近になって耳にした話だが、ネット上などで乳母車(これを「ベビーカー」と呼ぶのがふつうになっているが、オレは「赤ん坊」の時代はあっても「ベビー」だったことは金輪際ないぞ! と例によって噛みついておく・笑)の使用に関して論議が起きているという。なんでも、鉄道車両のなかで乳母車が邪魔にされ、コレを折畳んで乗るべきか否かというあたりからあれこれ話題が拡がっているらしい。しかし、まずもって疑問を感じたのは、なぜ乳母車が邪魔者扱いされなければならないのかということであった。場面的な意味ではわからないでもない。たとえば都心など大都会でのラッシュは、それこそ立錐の余地もないほどの混雑になるし、そんなところに乳母車を持ち込むのは周囲だけでなく乗せられている赤ん坊にとってもストレスになるように思うからだ。だが、だとしても乳母車=邪魔というのは、あまりにも寂しい感覚だと思わないだろうか。
同じ鉄道上では、駅に設置されたエレベーターをめぐってお年寄りとお母さんとの間で諍いが起きているのもいまやふつうのことだという。たまたま乳母車のお母さんが3人も集まってしまえば、1度で乗りきれないこともあるからだ。
これは車椅子などでも同様らしい。極端な例では列車の優先座席をめぐってお年寄りと車椅子利用者との間に衝突もあると聞く。また、公園などで子どもたちが遊んでいると、近隣の家から「うるさい」と“苦情”が飛ぶ……。
ここで触れたのは比較的限られた場面での話ではある。しかし、ゾっとされられた。
「未来を背負って立つ子どもたち」
のように口では言っておいておまえらなんだ?
要約すればそういう気分である。
こうしたことはたしかに個々の問題でもありそうだが、じつは国という意味で社会的な風潮にも影響されているという見方もできる。たとえば北欧のある国ではまったく逆の受け応えがスタンダードだという。込み合った電車やバス。そこに乳母車といっしょのお母さんが乗ろうとする。すると混雑のなか乗客がお互いに譲り合って手助けさえするというのだ(*欄外参照)。一例ではあるが、乳母車使用をめぐって起きている対立は、じつは社会の対応も問題だとはいえないだろうか。
ガラにもなくこんなことを記したのは、件の秋葉原で起きた殺傷事件の種子がこういう面からも社会に蔓延しているのではないかと感じたからである。ややムリを承知で記す。
ほんの幼少の時代から邪魔者扱いにされて育つ。保育園や幼稚園からはじまる施設での教育現場ではどうか? ここで語るにはテーマが大きすぎるけれど、本当の意味で子どもたちが安心して生きていけるような取組みがなされているといえるのだろうか。これは学校でケガをしないとかそういうレベルの話ではもちろんない。むしろケガならケガで、ほんの子どもにうちに繰り返し体験しておくほうが生きるうえでどれだけ役に立つかわからないのに、厳重な管理と責任分担の誤りから「これで安心」というやり方がスタンダードにはなっていまいか。そんなおとな目線での“無難”が子どもに対して一方的に押しつけられ、乳母車ひとつとっても自分という存在が喜ばれていないような社会。これに、仮にオヤの包容がなかったらどうなる? 思いだしてほしい。たとえば小学生のころ、怒らせるとおっかないけれど子ども心になぜか信頼できる先生がいた経験はないだろうか? ほんのささいなおとなのひとことが、おとなになってもなお心に残っているようなことは? プラスにもマイナスにも、人間同士や社会と人間とは大きく関わりあい続ける。その影響は多大であり、ましてや子どもならなおさらである。
存在や個性が受容されず、半ば教条主義が蔓延するようななかで育てられ、繰り返し冷たい扱いを受けて育つ。そうなったときに、どうして反社会的な意識を持つなといえるだろうか。誤解してほしくはないが、件の容疑者がそうだったとは言わないし、仮にそういう面があったとしても免罪しろとまで言うつもりもない。また、そういう境遇で育ったからといってだから反社会的な人間になるとか、なっていいとかそういう意味でもない。しかし、そういう温床を社会がつくりあげているということはいえないだろうかと思うのだ。
子どもや弱者に対するやさしい視線。ちょっとした場面でのあいさつや笑顔。たったこれだけのことでも、そのあるなしがやがて社会を大きく変えてゆくのではないか。そんなことを思ってみた。
*参考書籍:
『安心・平等・社会の育み フィンランドの子育てと保育』(藤井ニエメラみどり・高橋睦子著、明石書店)
*おまけ:
やさしさと対極のあるのが自民党政権と財界であろう。調子に乗り腐って(ヤケになって?)消費税増税などとその本音をいよいよ暴露した政権だが、これはメディアを使った様子見といっていいだろう。いまできることは大いに反発することである。消費税増税があたかも避けられない前提のようにタマタマ目にした民放のテレビニュースが宣っていたが(今後は税率をめぐって・・・のような)、いくら増税したところで増えたハズの財源の多くが儲かっている大企業の減税ぶんほかに充てられることは冷静に検分していけばわかることだ。どうしても増税したいのであれば、もはや解散・総選挙をもってして国民の審判を仰ぐことをしないわけにはいかないハズなのに、それすらしようとはしない愚かな政権の末期ということであろう。「消費税上げは不可避」などとも宣っていたが、不可避は政権の撤退のほうであろう。フクちゃんと自創(および傀儡を牛耳る財界)にはコレをプレゼントだ。さっさと退場してくれ。
参考記事として2本。
※「福田首相トンデモ発言」
※「消費税問題と新憲法制定議員同盟 新聞社をコントロールする戦略か」(新聞販売黒書)
ごく最近になって耳にした話だが、ネット上などで乳母車(これを「ベビーカー」と呼ぶのがふつうになっているが、オレは「赤ん坊」の時代はあっても「ベビー」だったことは金輪際ないぞ! と例によって噛みついておく・笑)の使用に関して論議が起きているという。なんでも、鉄道車両のなかで乳母車が邪魔にされ、コレを折畳んで乗るべきか否かというあたりからあれこれ話題が拡がっているらしい。しかし、まずもって疑問を感じたのは、なぜ乳母車が邪魔者扱いされなければならないのかということであった。場面的な意味ではわからないでもない。たとえば都心など大都会でのラッシュは、それこそ立錐の余地もないほどの混雑になるし、そんなところに乳母車を持ち込むのは周囲だけでなく乗せられている赤ん坊にとってもストレスになるように思うからだ。だが、だとしても乳母車=邪魔というのは、あまりにも寂しい感覚だと思わないだろうか。
同じ鉄道上では、駅に設置されたエレベーターをめぐってお年寄りとお母さんとの間で諍いが起きているのもいまやふつうのことだという。たまたま乳母車のお母さんが3人も集まってしまえば、1度で乗りきれないこともあるからだ。
これは車椅子などでも同様らしい。極端な例では列車の優先座席をめぐってお年寄りと車椅子利用者との間に衝突もあると聞く。また、公園などで子どもたちが遊んでいると、近隣の家から「うるさい」と“苦情”が飛ぶ……。
ここで触れたのは比較的限られた場面での話ではある。しかし、ゾっとされられた。
「未来を背負って立つ子どもたち」
のように口では言っておいておまえらなんだ?
要約すればそういう気分である。
こうしたことはたしかに個々の問題でもありそうだが、じつは国という意味で社会的な風潮にも影響されているという見方もできる。たとえば北欧のある国ではまったく逆の受け応えがスタンダードだという。込み合った電車やバス。そこに乳母車といっしょのお母さんが乗ろうとする。すると混雑のなか乗客がお互いに譲り合って手助けさえするというのだ(*欄外参照)。一例ではあるが、乳母車使用をめぐって起きている対立は、じつは社会の対応も問題だとはいえないだろうか。
ガラにもなくこんなことを記したのは、件の秋葉原で起きた殺傷事件の種子がこういう面からも社会に蔓延しているのではないかと感じたからである。ややムリを承知で記す。
ほんの幼少の時代から邪魔者扱いにされて育つ。保育園や幼稚園からはじまる施設での教育現場ではどうか? ここで語るにはテーマが大きすぎるけれど、本当の意味で子どもたちが安心して生きていけるような取組みがなされているといえるのだろうか。これは学校でケガをしないとかそういうレベルの話ではもちろんない。むしろケガならケガで、ほんの子どもにうちに繰り返し体験しておくほうが生きるうえでどれだけ役に立つかわからないのに、厳重な管理と責任分担の誤りから「これで安心」というやり方がスタンダードにはなっていまいか。そんなおとな目線での“無難”が子どもに対して一方的に押しつけられ、乳母車ひとつとっても自分という存在が喜ばれていないような社会。これに、仮にオヤの包容がなかったらどうなる? 思いだしてほしい。たとえば小学生のころ、怒らせるとおっかないけれど子ども心になぜか信頼できる先生がいた経験はないだろうか? ほんのささいなおとなのひとことが、おとなになってもなお心に残っているようなことは? プラスにもマイナスにも、人間同士や社会と人間とは大きく関わりあい続ける。その影響は多大であり、ましてや子どもならなおさらである。
存在や個性が受容されず、半ば教条主義が蔓延するようななかで育てられ、繰り返し冷たい扱いを受けて育つ。そうなったときに、どうして反社会的な意識を持つなといえるだろうか。誤解してほしくはないが、件の容疑者がそうだったとは言わないし、仮にそういう面があったとしても免罪しろとまで言うつもりもない。また、そういう境遇で育ったからといってだから反社会的な人間になるとか、なっていいとかそういう意味でもない。しかし、そういう温床を社会がつくりあげているということはいえないだろうかと思うのだ。
子どもや弱者に対するやさしい視線。ちょっとした場面でのあいさつや笑顔。たったこれだけのことでも、そのあるなしがやがて社会を大きく変えてゆくのではないか。そんなことを思ってみた。
*参考書籍:
『安心・平等・社会の育み フィンランドの子育てと保育』(藤井ニエメラみどり・高橋睦子著、明石書店)
*おまけ:
やさしさと対極のあるのが自民党政権と財界であろう。調子に乗り腐って(ヤケになって?)消費税増税などとその本音をいよいよ暴露した政権だが、これはメディアを使った様子見といっていいだろう。いまできることは大いに反発することである。消費税増税があたかも避けられない前提のようにタマタマ目にした民放のテレビニュースが宣っていたが(今後は税率をめぐって・・・のような)、いくら増税したところで増えたハズの財源の多くが儲かっている大企業の減税ぶんほかに充てられることは冷静に検分していけばわかることだ。どうしても増税したいのであれば、もはや解散・総選挙をもってして国民の審判を仰ぐことをしないわけにはいかないハズなのに、それすらしようとはしない愚かな政権の末期ということであろう。「消費税上げは不可避」などとも宣っていたが、不可避は政権の撤退のほうであろう。フクちゃんと自創(および傀儡を牛耳る財界)にはコレをプレゼントだ。さっさと退場してくれ。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
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