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猫池罵詈雑言雑記帳
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 昨年後半ごろから、学校への携帯電話持ち込みの是非が話題になっている。先月30日に文部科学省が発表した調査では、すでに多くの学校が携帯電話の持ち込みを制限しているといい、そのうえで、小中学校については持ち込みをさせず、高校では校内での使用を禁止するという通知を全国に出したという。

 こうした動きの背景には、子どもたちの間で携帯電話を介したいじめや、出会い系サイトなどと通じて犯罪に巻き込まれる事件が問題視されていることなどがあるのであろう。現にそうした児童・生徒間のいざこざから生命を落とすという事件も少なからずあり、保護者や教育現場にとって、携帯電話をめぐる問題にはなんらかの取組みを迫られているに違いない。だが、今般の国の動きや報道をみていて、この国のおろかしさをこれほど如実に顕わしているできごとはないのではないかと感じてきた。

 この国を動かす連中の下世話かつ傲慢な思想と、それを受ける側のモノわかりのよさときたらどうか。「朝日新聞」によれば、同紙が取材した自治体の多くで、すでに携帯電話の規制を実施しており、いまさら文科省が通知をよこしたところで大きな変化はないとしているという(http://www.asahi.com/edu/news/TKY200901310155.html
 リンク記事にも触れられているように、携帯電話という道具を上手かつ健全に使うための教育こそが大切なのであり、それをアタマから禁止すればいいというのは、臭いモノにフタというのと同じことではないのか。狙いに照らし合わせたとき、学校が禁止ならそれいいのかという問題だって残る。言い換えれば敗北宣言なのだ。そうした指導ができないから禁止しましょうというコトナカレ施策。これは携帯電話に限ったことではなくさまざまな分野にわたって繰り返されてきたわが国の教育政策そのままといっていい。アブナイからナイフを使ってはいけませんと取り上げられ、正しい使い方すら覚えずに成長させられる子どもたち。川遊びは危ないからしてはいけませんと締め出され、身近な自然との関わりを体験できずにいる子どもたち……(*注)。
 ひとつ恐ろしく感じるのは、ひょっとするとこうした禁止をオカミが決めてくれることに安堵している保護者が少なからずいるのではないかということであり、逆にいえば、オカミが手を打たなければ自分の子どもに対する教育や、携帯電話を持たせることの是非の判断ができないオヤがそれなりの層をなしているのではないかということなのである。たとえば、いわゆる“学校闇サイト”問題などにしても、その根には子どもたちに対してモラルを十全に教育できていないことがあると考えているが、出会い系サイトの悪用など一部にある明らかな悪意については別として、携帯電話使用をめぐる問題の多くはルールよりむしろモラルの欠如にこそある(*注)。問題の解決ができないからルールで規制するというのでは、同時にモラルの教育についても放棄するのと同じではないか。
 ここはぜひ「学校がダメっていうから」ではなく、自立した見識を持ってこの問題に向き合ってはどうか。そのうえで、必要だと考えるのであれば、学校側とヒザを突き合わせて議論すればいい。逆に、規制の類がないなかで持たない持たないという合意が子どもとの間であるのならば、周囲がどうあれ持たせないということも必要だ。もちろん、そうした保護者もいるハズではあるが、携帯電話に限らず、周囲の子どもたちが買い与えられているからウチでも仕方なく……という消極性はむかしからあったことではある。

 そして、いまひとつはこんなことに国が介入していくというこの1点。これこそがこの国のおろかしさを体現しているのである。現場で問題になっているからこそ、おのおのの現場がその単位で対策を練るのはいい。しかし、それは国をはじめとする行政主導ではなく、まずは保護者を含む現場での対話こそが重要ではないのか(もっと重要なのは「では自分の子どもには持たせたいのかそうでないのかをきちんと判断すべきオヤの自律であろう)。そうして、子どもたちにより正しい使い方や知識を教え、かつ裾野から実行の根を拡げてゆく。むろん、国がどうこう言い出す背景には、この問題が相当に深刻化しているという見方があるのではあろう。だが、こうしてオカミが関わってくるということは、それが禁止を含む施策にからんでくることもあって、じつは極めて危険なことだと自覚すべきである。
 教育という面で、やれ愛国心がどうのとか、模範的道徳がどうのとか、児童・生徒の内面に対する言い含みと根は同じなのである。あるいは「君が代」の強制も、これに近いものがあるだろう。わが国では政府主導のもと、「自由化、自由化」と経済活動については無法に近い状態に近づける努力をしてきた。国家を成り立たせる重要な要因であるこの分野について、とりわけコイズミスネオ政権以降になるとその傾向が顕著化したが、それと並行して教育現場に対する国家や行政の介入の度合いがより高まったのである。これはその一環と解釈することも可能なのではないか。しかも本来は国家が関わるべきでない内心の自由にまで踏み込み、そのくせ教育関連の予算を削ってゆく。どこまで子どもたちのことを慮っての施策なのかという点について、疑わしい目を向けざるをえないのだが、この見方は大袈裟だろうか?



*おまけ:
 個人的には、少なくとも小中学生に携帯電話など持たせる必要はないと考えている。現代では、とりわけ子どもたちを巻き込む犯罪などから守るという狙いも使用を認める理由にされているようだが、今般の規制は逆に(十分な教育をおろそかにしながら)携帯電話を持たせているがゆえに犯罪やそれに類する事件が起きているがゆえという皮肉な実態を反映しているのだからなにをかいわんやであろう。それに、少し前まではそんなものはなくとも子どもたちに対する安全対策が講じられてきていた。いかに時代が変わったとはいえ、こんな点を買い与える理由にするというのはナンセンスというものである。あえて子どもたちに持たせる理由を探すとしたら、それはいずれ公私ともに使うことになる便利な道具・携帯電話(モバイル)の使い方を、そのマナーを含めて教育するというぐらいのものだ。もっとも、この点についてもきちんと教育できるとは思えないおとなのあまりの多さにいささか頭痛がしているのだが。
 ただし、持たせないという方法をいかにするのかということについては、やはり保護者や学校こそが主導的立場になる必要があろう。オカミからの規制がなにもなければ右向け右でなんとなく買い与え、規制ができたからとこれ幸いのように持たせるのを止めるといった類の主体性のなさは、少なくとも発揮してほしくないと思う(これは子どもがどうとか、携帯電話がどうとか、それだけの話ではないのはいうまでもない)。

 ひとつつけ加えると、携帯電話使用による料金の問題もあろう。ある知人は、高校生のむすめの携帯電話代が毎月3万円を超えると嘆いていたけれど、これには使い方のモラルと同時に、電話会社側の商魂も大いに関係しているとみる。一見して便利に思える機能のなかには、基本料金のレベルからすればべらぼうな料金が課せられる商品もあるからだ。近ごろ、インターネット利用などをめぐる多額の請求が問題化しつつあるが、にわかにはわかりづらい料金設定を含め、こういう点については明確にルール化してゆく必要があるし、これこそが国をはじめとする行政の責任である。
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 レジャーライター=植村誠の別館ブログです。
 ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
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