この1年を表わす漢字として“偽”が選ばれ、さまざまな論評がなされ、それぞれに感想があると思う。なんとも皮肉な視点が感じられる選出で、2位以下をみても“嘘”(3位)やら“疑”(4位)やらが並んでいるあたり、大衆が怒りと同時に呆れ返っているさまが窺えてくるようだ。ニュースなどでは一連の食品偽装などを槍玉に挙げる形でこの件を伝えるムキが多いように思えたが、本質はそこだけにあるわけではないだろう。年金問題しかり。防衛省疑獄しかり。ちょっとした小悪の類から巨大犯罪的行為まで、いったいぜんたいこの国の権力者とはどういう人種なのかとその常識を疑わざるを得ない実態がいくつか明らかになってきた。そうしたもろもろをひっくるめての“偽”なのであろう。
ところで、オレとしてはこの“偽”も悪くはないが“隠”あるいは“狡”なんてのはどうかと推薦したいと思っている。たとえば、沖縄戦をめぐる教科書検定問題。26日、高校日本史教科書での沖縄戦「集団自決」の記述に関する教科書検定問題で、教科書会社6社から出ていた訂正申請を文部科学省が承認、その一部の訂正が認められた。いうまでもなく旧日本軍による虐殺行為に関する記述である。
背景には沖縄の大衆らの声があったことはだれしもが認めるところであろう。なんらかの不都合を隠蔽せんとする国を大衆が動かしたのである。この価値は大きい。しかしそれよりもなにも、事実は事実として動かせないことを再認識する必要がある。ウソやわい曲はいずれ破綻するのだ。今回の撤回は、一部勢力がいかに偽装を通そうとしたところでしょせんはムリがあるのだということを証明するひとつの手がかりにもつながるのではないかと思う。
だが、この期に及んでなお玉虫色の表現でコトを誤魔化そうとする文部科学省。すなわち、「軍の強制」という表現を排除する一方で、「日本軍の関与によって集団自決に追いこまれ」などの表現であやふや感を臭わせようとしているのである。「強制」はダメだが「関与」ならOKということであろう。だが、当時の軍の権力とはいかなるものだったのかを考えれば、「関与」された住民にとってこれがすなわち強制であったことは疑いの余地はないハズだ。「直接的な軍の命令は確認できない」からという意見もあるというけれど、現に日本軍の軍人から手榴弾を渡されるなど自決を迫られたという事実は明らかにされている。「直接的な軍の命令」そのものである。それとも、旧日本軍の最高責任者だった昭和天皇直々の命令ではなかったからと末端の兵隊の勇み足のごとく責任転嫁でもしたいというのだろうか。
「東京新聞」によれば、教科書会社の編集者が『訂正申請後の教科書調査官とのやりとりで、『「関与はいいが、強制や命令は認められない」とはっきり言われたという』(12月27日朝刊)。その結果、『「強制的な状況」と不自然な表現』(同)という摩訶不思議な表現の内容にさせられつつある(*注)。
こうした態度がなにを慮ってのことなのかはあるていどの想像はつく。だが、事実は事実として動かしようがないではないか。過去の失敗や過ちはそれとして、今後に対してそうしたことを繰り返さないためにどうしたらいいかということこそが大切であり、そのために事実をきちんと知ってゆくことのなにが悪いというのだろう。『「様々な背景・要因」を持ち出して「歴史の真実」から目を背けてい』(「東京新聞」12月27日社説。当時の安倍政権との関連についても触れているなど一読をお薦めしたい)るとはいえないか。そして、そうした事実と向き合うことを「自虐的」と揶揄する層がいるけれども、過去の過ちを「恥ずべきこと」として隠蔽することのほうがよほど「自虐的」というものであろう。過去に目をつぶるばかりでなく、未来にも目を向けていない。なんにつけ都合がいいことばかりではないのだ。逃げていていいわけでもあるまいに。こうした態度こそが偽装であり隠蔽であり狡猾のいい見本であろう。
しかし、たとえそんな国の態度であり状況であろうとも、その一角を大衆の力が動かしたことの意味は大きい。
23日には薬害肝炎問題に関して福田首相が議員立法による被害者一律救済の意向を示し、国の責任についても進展する可能性がでてきた。事実を隠蔽し逃げ回っていた狡い連中が追い詰められつつある。国からの度重なる冷酷な仕打ちに対して正当な主張を展開してきた被害者らの努力が国を動かしつつあるのである。
むろん、支持率が低下する一方の現政権による政略ではあろうけれど、それだって国民の大勢が不支持を表明するからこそ可能になることなのだ。たとえ「しぶしぶ」であろうとも、そうせざるを得なくなった背景には評価すべきものがある。そして、本当にきちんとした形で政策が遂行され、先々に同種の事件を繰り返さないようにできるかどうかについて監視を続けてゆく必要がある。原告との会見から逃げ回ってきた福田首相本人の責任問題も含めて。
こうしたできごとが積み重なることによって、いずれは前向きな漢字が選ばれることにもつながってくることも期待したい。
*注:
文章を生業としている立場で、こういうことはあまり記したくないが、必要と思わない場面でこういう「〜的」と表現する場合、その背景には悪くいえば「誤魔化し」、あるいは「逃げ」があるケースがあることを指摘しておく。もちろん、すべてがそうであるわけではなく、一部を簡略化する場合などにも用いられるが、この教科書検定の場合が誤魔化しのためであることは強調しておきたい。
ついでながら「東京新聞」の社説と逆の意味でケッサクだったのがコレだ。ええ、ええ。毎度おなじみ「産経新聞」配信(12月26日)の記事で、「断定的な記述や信憑(しんぴよう)性が疑われる記述、事実ではあっても教科書記述として首をかしげたくなる記述が次々とパスした」ってんだけど、こんなこと新聞が書いても大丈夫なんですか? 事実に対して首をかしげたくなる記述を得意としているのはむしろオタクのほうなんですがねぇ(笑)。ちなみに、『渡嘉敷村の守備隊長が村民に対し「非戦闘員だから最後まで生きてくれ」と言ったとされる証言も否定しかねない書き方』(同記事)とあるのは、「東京」が言う『「様々な背景・要因」を持ち出して』の一例にはなろう。必死さが伝わってきて微笑ましくもあるが。
*おまけ:
ところで、今日の話題とは関係のないネタだが、26日、JR外房線の車両に落書きがあり、千葉県警が器物損壊の疑いで捜査をはじめたという雑報についてふれておきたい。
なんでも、26日8時40分ごろ、千葉駅に到着した普通列車の車両側面に落書き(暴走族やジャリどもがやるスプレーなどによるアレ)が発見されたというのだが、問題はこの列車がそうとは気づかれずに上りの1仕業をこなしてきたところにある。すなわち、前夜22時15分ごろから26日の6時ごろまで同線の安房小湊駅に留置されていたものが、上り列車となって千葉まで運行(安房鴨川6時29分発244Mと思われる)され、千葉到着までJR職員が把握していなかったというのだ。報道によれば出発前に乗務員が車両点検としたとされるが、落書きがホームと反対側にあったことなどから気がつかなかったらしい。ということはホーム上からホームに面した側しか点検していないことになり、そういう業務で日ごろから済ませていた可能性がある。そのうえ、途中駅でも気がつかなかったというのだからいったいぜんたい同社の安全対策とはどうなっているのだろうとクビをかしげざるをえない。朝の通勤通学時間帯。有人駅だっていくつもあるのだが……。
車内放送などで「テロ対策」がどうのと宣っているけれど、すなわちホームとは反対側に爆弾でもしかければいくらでも凶悪犯罪が可能……という見方もできそうだし、そうでなくともひと晩留置しておいてその間になんらかの故障なりがあっても事前処理ができないことになる。ぁあ、「テロ対策」云々は“偽”なんですにゃ。落書きていどで済んだのは同社にとって僥倖である。
安房小湊駅はいちおうは有人駅だが、夜間には無人出改札とも無人となる。その間に職員がいるのかどうかまでは把握していないが、駅の構造上、構内に入るのはいとも簡単である。そんなところに車両を留置し、かつ出発前点検もおざなりとは、なんともお粗末な状態ではないか。改札付近には監視カメラもあるハズだが、日ごろから思っているとおり、監視はとにかくとして防犯の役にはさっぱりたたないということがここでも明らかにされた点にも注目する必要はあろう。
背景には沖縄の大衆らの声があったことはだれしもが認めるところであろう。なんらかの不都合を隠蔽せんとする国を大衆が動かしたのである。この価値は大きい。しかしそれよりもなにも、事実は事実として動かせないことを再認識する必要がある。ウソやわい曲はいずれ破綻するのだ。今回の撤回は、一部勢力がいかに偽装を通そうとしたところでしょせんはムリがあるのだということを証明するひとつの手がかりにもつながるのではないかと思う。
だが、この期に及んでなお玉虫色の表現でコトを誤魔化そうとする文部科学省。すなわち、「軍の強制」という表現を排除する一方で、「日本軍の関与によって集団自決に追いこまれ」などの表現であやふや感を臭わせようとしているのである。「強制」はダメだが「関与」ならOKということであろう。だが、当時の軍の権力とはいかなるものだったのかを考えれば、「関与」された住民にとってこれがすなわち強制であったことは疑いの余地はないハズだ。「直接的な軍の命令は確認できない」からという意見もあるというけれど、現に日本軍の軍人から手榴弾を渡されるなど自決を迫られたという事実は明らかにされている。「直接的な軍の命令」そのものである。それとも、旧日本軍の最高責任者だった昭和天皇直々の命令ではなかったからと末端の兵隊の勇み足のごとく責任転嫁でもしたいというのだろうか。
「東京新聞」によれば、教科書会社の編集者が『訂正申請後の教科書調査官とのやりとりで、『「関与はいいが、強制や命令は認められない」とはっきり言われたという』(12月27日朝刊)。その結果、『「強制的な状況」と不自然な表現』(同)という摩訶不思議な表現の内容にさせられつつある(*注)。
こうした態度がなにを慮ってのことなのかはあるていどの想像はつく。だが、事実は事実として動かしようがないではないか。過去の失敗や過ちはそれとして、今後に対してそうしたことを繰り返さないためにどうしたらいいかということこそが大切であり、そのために事実をきちんと知ってゆくことのなにが悪いというのだろう。『「様々な背景・要因」を持ち出して「歴史の真実」から目を背けてい』(「東京新聞」12月27日社説。当時の安倍政権との関連についても触れているなど一読をお薦めしたい)るとはいえないか。そして、そうした事実と向き合うことを「自虐的」と揶揄する層がいるけれども、過去の過ちを「恥ずべきこと」として隠蔽することのほうがよほど「自虐的」というものであろう。過去に目をつぶるばかりでなく、未来にも目を向けていない。なんにつけ都合がいいことばかりではないのだ。逃げていていいわけでもあるまいに。こうした態度こそが偽装であり隠蔽であり狡猾のいい見本であろう。
しかし、たとえそんな国の態度であり状況であろうとも、その一角を大衆の力が動かしたことの意味は大きい。
23日には薬害肝炎問題に関して福田首相が議員立法による被害者一律救済の意向を示し、国の責任についても進展する可能性がでてきた。事実を隠蔽し逃げ回っていた狡い連中が追い詰められつつある。国からの度重なる冷酷な仕打ちに対して正当な主張を展開してきた被害者らの努力が国を動かしつつあるのである。
むろん、支持率が低下する一方の現政権による政略ではあろうけれど、それだって国民の大勢が不支持を表明するからこそ可能になることなのだ。たとえ「しぶしぶ」であろうとも、そうせざるを得なくなった背景には評価すべきものがある。そして、本当にきちんとした形で政策が遂行され、先々に同種の事件を繰り返さないようにできるかどうかについて監視を続けてゆく必要がある。原告との会見から逃げ回ってきた福田首相本人の責任問題も含めて。
こうしたできごとが積み重なることによって、いずれは前向きな漢字が選ばれることにもつながってくることも期待したい。
*注:
文章を生業としている立場で、こういうことはあまり記したくないが、必要と思わない場面でこういう「〜的」と表現する場合、その背景には悪くいえば「誤魔化し」、あるいは「逃げ」があるケースがあることを指摘しておく。もちろん、すべてがそうであるわけではなく、一部を簡略化する場合などにも用いられるが、この教科書検定の場合が誤魔化しのためであることは強調しておきたい。
ついでながら「東京新聞」の社説と逆の意味でケッサクだったのがコレだ。ええ、ええ。毎度おなじみ「産経新聞」配信(12月26日)の記事で、「断定的な記述や信憑(しんぴよう)性が疑われる記述、事実ではあっても教科書記述として首をかしげたくなる記述が次々とパスした」ってんだけど、こんなこと新聞が書いても大丈夫なんですか? 事実に対して首をかしげたくなる記述を得意としているのはむしろオタクのほうなんですがねぇ(笑)。ちなみに、『渡嘉敷村の守備隊長が村民に対し「非戦闘員だから最後まで生きてくれ」と言ったとされる証言も否定しかねない書き方』(同記事)とあるのは、「東京」が言う『「様々な背景・要因」を持ち出して』の一例にはなろう。必死さが伝わってきて微笑ましくもあるが。
*おまけ:
ところで、今日の話題とは関係のないネタだが、26日、JR外房線の車両に落書きがあり、千葉県警が器物損壊の疑いで捜査をはじめたという雑報についてふれておきたい。
なんでも、26日8時40分ごろ、千葉駅に到着した普通列車の車両側面に落書き(暴走族やジャリどもがやるスプレーなどによるアレ)が発見されたというのだが、問題はこの列車がそうとは気づかれずに上りの1仕業をこなしてきたところにある。すなわち、前夜22時15分ごろから26日の6時ごろまで同線の安房小湊駅に留置されていたものが、上り列車となって千葉まで運行(安房鴨川6時29分発244Mと思われる)され、千葉到着までJR職員が把握していなかったというのだ。報道によれば出発前に乗務員が車両点検としたとされるが、落書きがホームと反対側にあったことなどから気がつかなかったらしい。ということはホーム上からホームに面した側しか点検していないことになり、そういう業務で日ごろから済ませていた可能性がある。そのうえ、途中駅でも気がつかなかったというのだからいったいぜんたい同社の安全対策とはどうなっているのだろうとクビをかしげざるをえない。朝の通勤通学時間帯。有人駅だっていくつもあるのだが……。
車内放送などで「テロ対策」がどうのと宣っているけれど、すなわちホームとは反対側に爆弾でもしかければいくらでも凶悪犯罪が可能……という見方もできそうだし、そうでなくともひと晩留置しておいてその間になんらかの故障なりがあっても事前処理ができないことになる。ぁあ、「テロ対策」云々は“偽”なんですにゃ。落書きていどで済んだのは同社にとって僥倖である。
安房小湊駅はいちおうは有人駅だが、夜間には無人出改札とも無人となる。その間に職員がいるのかどうかまでは把握していないが、駅の構造上、構内に入るのはいとも簡単である。そんなところに車両を留置し、かつ出発前点検もおざなりとは、なんともお粗末な状態ではないか。改札付近には監視カメラもあるハズだが、日ごろから思っているとおり、監視はとにかくとして防犯の役にはさっぱりたたないということがここでも明らかにされた点にも注目する必要はあろう。
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ここではおもに時事ネタを中心に独断と偏見にて雑感を記してゆきます。本館サイトアトリエ猫池ともどもお楽しみください。
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